青年モラトリアムの読書譚

人生のモラトリアム真っ只中の青年が、読んだり、考えたりするブログです。

読書感想|ショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について 他二篇』岩波文庫

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 光文社古典新訳文庫でも読めます。参考までに。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」―一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788‐1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。

 

 

「『反復は研究の母なり。』重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりをよりよく理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象を受けるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである」(p.138)

 

 本書を読むのは二度目である。書斎で傍らにあったので何気なく手に取ってみると、気づけば通読してしまった。その途中で、思いがけず上の一文を発見したものだから、思わず頬が緩んでしまった。

 さて、今月に入ってから二冊目の岩波である。

 

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない」(pp.127-128)

 

 という、けっこう辛辣な言葉を差し向ける本書の著者たるショウペンハウエル自身は大層な読書家であった。結構有名な話である。言葉の端々から、俺はお前らと違ってちゃんと考えて読んでるぞ、という大哲学者の自負が垣間見える。

 さて本書はそんな読書家のショウペンハウエルが「読書の危険性」を告発するというもの。毒舌の読書家が読書の毒性を説くというのは、なかなかトリッキーである。毒を以て毒を制すというわけか。 

 十九世紀に著された本書は、百害あって一利なしの自己啓発本が氾濫する昨今の時流の逆を行く、古典を軸とする重厚な読書論を説いているが、かかる読書法の正統性は、彼の生きた時代から時の淘汰を受けて、脈々と続いているその経緯からして、ある程度は証明されていると言えるのではないか。

 それにしても、このショウペンハウエル氏。兎に角、口が悪い。

 

「文学も日常生活と同じである。どこに向かっても、ただちに、どうにもしようのない人間のくずに行きあたる。彼らはいたるところに群をなして住んでいて、何にでも寄りたかり、すべてを汚す。夏のはえのような連中である。だから悪書の数には限りがなく、雑草のように文学の世界に生い茂っている」(p.132)

 

 どうだろう。哲学者だって口汚くののしるのである。そういう気分の時もある。怒り心頭に発するというやつである。混交玉石の書籍の群れの中から「玉」と「石」を仕分ける能力が求められるのだとショウペンハウエルは説いている。

 ぼくが面白いと思うのは、以下の指摘。これは結構いろいろ考えるところがあると思っている。

 

「著作家に固有の性質、才能としては、たとえば次のいくつかのものがあげられるだろう。説得力、豊かな形容の才、比較の才、大胆奔放、辛辣、簡潔、優雅、軽快に表現する才、機知、対照の妙をつくす手腕、素朴純真など。ところでこのような才能を備えた著作家のものを読んでも、一つとしてその才能を自分のものとするわけには行かない。だがそのような才能を素質として、『可能性』として所有している場合には、我々は読書によってそれを呼びさまし、明白に意識することができるし、そのあらゆる取り扱いを見ることができる」(pp.129-130)

 

 非凡な著作家は人を惹きつける魅力を有する。非凡さを天性の才、即ち天才と解するならば、天才は人を引き付ける引力を有するといってもよかろうと思う。これは思想の引力である。読書をするうえで、あるいは社会生活をするうえで注意すべきはこの「思想の引力」であるとぼくは思っている。経験則としてそう思う。

 何も著作家に限らない。あまりに圧倒的な知性と接するとき、ぼくたち凡人はその非凡な思想の磁場に惹きつけられ逃れられなくなるということはないか。例えば未知の問題に接するとき、自身が既知の思想を適用し、再解釈するのみで満足してしまうということはないか。それは思想の怠慢ないし怠惰なのではないか。と思うのである。

 ショウペンハウエルが読書の危険性を論じるとき、彼は同時に、ぼくたちがショウペンハウエルの話をただただ反復し満足するということを慎むよう警告している。大哲学者の非凡な思想の引力から逃れるとき、ぼくたちは固有の視座を獲得し得る。事ここに思い至り、ぼくは自ずとカントの啓蒙思想に導かれるように思えてならないのである。

 

「啓蒙とは何か。それは人間が、自ら招いた未成年状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年状態にとどまっていることになる」(p.10)カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫

 

 舌の根も乾かぬうちにカントを引用してしまった。これこそが思想の引力である。独自の思想系を打ち建てるにはまだまだ「経験」が足りないというわけか。今後も修行に励む。未成年状態から脱する道は長い―。

 

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

 

 

読書感想|天児慧『中華人民共和国史』岩波新書

 

中華人民共和国史 新版 (岩波新書)

中華人民共和国史 新版 (岩波新書)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

二一世紀に入り、世界の眼は俄然、中国に向けられるようになった。飛翔を始めた巨大な龍。一九四九年の建国以来、この国はどんな歩みをたどってきたのか。今日に至る数多くの事件・事実をたどり、他に類を見ない、そのダイナミックな歴史の流れを描く。定評ある通史をアップデートした新版。

 遅ればせながらの卒読。本書は中国近現代史を考えるうえでの必読書にして最良の入門書である。これまで「積読(ツンドク)」状態であったのをようやく片した。

 曲がりなりにも中国で二年間の研究活動に従事していた者としては、いまさらという感もあるが、それでも多くの発見があり、多くの学ぶべきことがあった。中国留学を考えている人、既に留学した人、駐在員の人、何らかの形で中国と接する人は、本書を起点に中国に対する基本的な認識を形成するとよいと思う。思わぬ形で役に立つはずである。損得を抜きにしても、中国で生活するのに中国の近現代史を知らないというのは何とも情けないではないか。

 本書を薦めるのは、そのバランスの良さにある。巷に溢れる多くの中国論が、極端に自虐的な中国称賛か、あるいは極端にナルシスティックな中国批判に二分する中で、本書は極めて冷静に中国史の動静を論じており好感がもてる。著者のバランスのとれた分析は以下のような認識の故なのだろう。

 

「2000年以降、日本と中国をとりまく環境は大きく変わった。もちろんそこには、国力の大きな変化、日中関係自体の悪化などあるが、もっとも大きな変化は、お互いの相手を見る眼、考える観点の変化である。とくに今の日本人は、中国を感情的に見てしまう傾向が一段と強まっている。しかし、それで良いのか。それで日本と中国は未来を切り開くことができるのか。『相手を好きになる』ことが関係改善の前提だとは思わない。その前に、『決めつけ』『思い入れ』に先走らずに、客観的に中国理解を深める努力を続けることが大切であろう。

 中国は『引っ越しのできない隣人』とよく言われるが、私はその表現は不十分だと思う。むしろ『離れたくても離れられない複雑に絡み合った隣人』といった方が適切であろう。それだけに、甘いも辛いも酸いもすべてない交ぜの隣人・中国とはしっかり向き合うしかない。個人的に言えば、肩の力を少し抜いて、こうした隣人と向き合うと結構おもしろい発見に出合う。その感性をいつまでも大切にしたいと思う」(pp.231-232)

 

 「肩の力を抜いて」接しなくてはならない。誰も彼もが力み過ぎているのである。著者の天児氏は中国政治を専攻する国際政治学者。学者には事態を冷静に把握する分析力こそ求められるが、冷静さは力んでいる限りはでてこない。プロの学者はこのことをよく分かっている。「肩の力を抜く」ことについては、ぼくも思い当たる節がある。多くの平均的な日本人の御多分に洩れず、ぼくも力んでいたのであろう。天児氏が云う「結構面白い発見」に出遭ったのは、ぼくの場合は中国の地を踏んで半年ぐらい経過して、やはり肩の力を抜いてからであった。

 けれど、肩の力を抜きすぎて、思考停止してもいけない。最近読んだ話だと、例えば中国の政治と経済の両面に明るい矢吹先生も同じようなことを仰っていたのを思いだす。

 

「日本では中国のせいにするとだいたい通ってしまうということ、そこが問題です。これがアメリカとのトラブルだったら『アメリカが悪い』と言ってもみんな納得しないのに、中国の場合は『中国はどうせいいかげんな国だから』と中国のせいにするとそれで話が終わってしまうというところに大きな問題があります」矢吹晋『中国から日本が見える』ウェイツ(p.96)

 

 矢吹氏の指摘はなるほどな、と思わせる。「中国はいいかげん」と言って思考停止するのを避けて「何がどういいかげんなのか」を論じるだけの基本的な知識はもっておけ、ということなのだろう。ぼくはそう理解した。

 

中国から日本が見える (That’s Japan)

中国から日本が見える (That’s Japan)

 

 

 自身の経験を過剰に一般化するつもりはないが、それにしても日本の多くの人の中国史に対する認識は驚くほど過少であると思う。西洋史のあれこれをよく知っているのとは雲泥の差である。

 天児氏が云うように、まずは「力まず」中国の歩んできた歴史を知る必要がある。文化大革命について説明できるか。中ソ対立について説明できるか。鄧小平の改革開放について説明できるか―、等々も含んでの近現代史なのである。歴史の話は何も南京大虐殺天安門事件にのみ限定されるわけではない。近現代史はそこにのみ尽きるわけではないのである。

 まずは知らねば生産的な批判はできない。少なくとも知る努力はするべきであろう。中国の歴史と言えば三国志を思い浮かべる人も多いと思うが、やはり近現代史が大切だと思う。本書を通して改めてその重要性を痛感した。 

 それから、本書の特徴としてぼくが面白いと思ったのが、本書が中国近現代史を俯瞰する要点の一つとして指摘する「国際的インパクト」の話。本書を読み進めるうえで一貫して国際社会の動静が大きな存在感を以て描かれる。

 

「中国近現代史全体を俯瞰し、歴史のダイナミックスを創り出す基本的なファクターを抽出してみるなら、以下の五つが浮かび上がってくる。すなわち、①革命のファクター、ここでいう革命とは破壊的、暴力的な手段によって現体制やそれを担う主体、経済的社会的思想的基盤を破壊しようとする行為を指す。②近代化のファクター、無論、ここでは経済的近代化のみならず、政治的な国民国家建設や西欧近代思想の受容なども含んでいる。そして両者に覆いかぶさるように関わる、③ナショナリズムのファクターがある。さらに、これらを突き動かす、④国際的インパクトのファクターがあり、そして一般的には革命や近代化の対象となりながらも、しばしば革命や近代化そのものに作用し、それらを『中国的なもの』にする⑤伝統のファクターがある」(pp.v-vi)*太字はブログ管理人。

 

 別に改めて言うまでもないが、国内政治と国際政治は連動している。これは国内経済と国際経済が連動しているのと同じである。国際政治学では「共振」と言われたりする概念である。鄧小平が外圧を利用して国内経済の跳躍を狙ったとか、国有企業改革や生産性の向上を図るためのWTO加盟を「共振」とかいうだけならば、別に今更言うまでもない。

 そこは、さすが天児氏は学者である。客観的で犀利な分析で、毛沢東から習近平に至るまでの幅の広い「共振」を描き切っている。新書という紙面の制約なのだろうか、胡錦濤政権以降の記述は相対的に少ないのが残念ではあるが―。

 もちろん個人の客観性には限界がある。人によっては本書が岩波の書籍である一事を以てして髪の毛を逆立てるかもしれない。別に逆立ててもよいと思う。どのような事柄であれ批判の余地は十分に認められるべきである。それが民主主義国家の原則である。ぼくら日本人は自由に何事をも批判できるということをもっと誇ってもよいと思う。全ての国で批判することが自由ではないのだから。

 残念ながら、本書も示す通り、中国の近現代史はそういう自由な批判を抑圧する方向で展開している。本書で紹介されているものだけでも事例には事欠かない。例えば、第二次天安門事件の話はやっぱりひどい。

 

「徐々に一般学生たちは広場から離れはじめ、民主化要求を死守しようとする強い意志を持った人々を残すのみとなっていった。かくして六月三日未明より四日にかけて、『運動は反革命暴乱に変わった』との理由で戒厳部隊が北京中心部に向けて出動を開始し、天安門広場に至る幾つかの主要道路上で抵抗する学生・市民に発砲し、蹴散らしていったのである。その死者は一説で二〇〇〇名前後との報道もあり、その後の当局の発表でさえ軍側も合わせ死者三一九名、負傷者九〇〇〇名に達するほどであった」(pp.152-153)

 

 中国で人権というと「08憲章」の劉小波氏は記憶に新しい。本書でも彼について若干の記述がある。彼の他にも多くの人権活動家がおり、民主化運動が存在し、且つ今も存在していることは知っておいて損はあるまい。

 「中国は○○だ」と短絡することは厳に慎むべきである、というのが本書の総括として云い得るであろう。

 そもそも一国の評価を「○○である」と一言で(in a nutshell)言い尽くすことは不可能である。けれどどういうわけか、こと中国に関してはそういう短絡をしてしまいがちである。思慮分別を欠いている不毛な中国論には何の意味もない。心底思う。けれど知らず知らずのうちに根拠薄弱な短絡をしてしまう恐れがある。自己の経験を過大視する惧れがある。だからこそ虚心坦懐に近現代史を学ばなければならない。歴史は現在に至る歩みであり、現在は歴史の上にあるのだから。改めてそう思う。

 

読書感想|キケロ(中務哲郎訳)『老年について』岩波文庫

 

老年について (岩波文庫)

老年について (岩波文庫)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

古代ローマの政治家・文人大カトーが文武に秀でた二人の若者を自宅に招き自らの到達した境地から老いと死と生について語る、という形をとった対話篇。古代ローマの哲学者・政治家キケロー(前一〇六‐前四三)が人生を語り、老年を謳い上げる。新訳。

 

 久しぶりの岩波文庫。久しぶりのキケロである。学部生の時分に『友情について』(岩波文庫)を読んで以来、キケロはすっかりご無沙汰であった。これで二冊目である。

 

友情について (岩波文庫)

友情について (岩波文庫)

 

 

 タイトルは老年について。ぼくは二十代である。まだ若いと思っている。されど気づけば二十代。しかも中盤。ちょっと愕然としている。いくら人生は長いとはいえ、こうも早い時の経過を目の当たりにしては、ちょっとばかり「老い」というか、齢(よわい)を重ねることについて考えさせられる。備えあれば患いなし。「老いる」ことをネガティブではなく、ポジティブに肯定してみたいではないか。そういう経緯で、ここらで少し「老いる」という事柄についても考えてみたくなった次第である。

 しかしどうも「老いる」ということは、ぼくのみならず、古来より若者の関心事でもあるようで、本書の語り部である齢80歳の古代ローマの政治家・大カトーを訪れるのは、ラエリウスとスキピオという二人の若者である。尚、ラエリウスは『友情について』でも登場するキケロのお気に入りの青年である。

 

ラエリウス カトー様、スキーピオに代わって申しますが、私たちも老人になっていくでしょうし、それを望んでもいるのですから、いかなる方策をもってすれば老いの道行きを最も安く耐えることができるか、それをあなたの口からずっと早くにお教えいただければ、これに勝る喜びはないでしょう」(p.14)*原文ママ

 

 ラエリウス、スキピオ両名とおなじく、ぼくもまた老いるということを必ずしもネガティブなこととは思っていない。けれど世間一般の通念に照らせば、老いとは忌避されるものである。

 

「さて、わしの理解するところ、老年が惨めなものと思われる理由は四つ見出される。第一に、老年は公の活動から遠ざけるから。第二に、老年は肉体を弱くするから。第三に、老年はほとんどすべての快楽を奪い去るから。第四に、老年は死から遠く離れていないから。もしよければ、これらの理由の一つ一つがどの程度、またどのような意味で正当かを、検討してみようではないか」(p.22)

 

 そういう中にあって、キケロは第一から第四の通念を批判的に検討する。その是非は実際に読んで判断してもらうしかないが、いずれの検討も説得力に富み刺戟的なものであるとぼくは思う。

 それにしても、これらキケロの言葉は老いを肯定し得るものとして、さぞ力強いものであったろう。その勢いたるや若者の青春の輝きすらも呑み込まんとする気概である。

 

「いや、青年の望むあらゆること老人はすでに達成しているのだから、それだけ老人の方が良い状況にある。あちらは長くいきたいと欲するが、こちらは既に長く生きたのである」(p.65)

 

 直感的ないし情緒的な常識を批判的に検討することで、より理性的な結論を導出する。それでこそ哲学者。それでこそ知識人の仕事ではあるまいか。こういうことが老齢であってもできるというのが、キケロの大哲学者たるゆえんである。

 さて、ぼくは老いを必ずしもネガティブなものと考えないといった。そう言いきれるのは、ぼくのまわりには素敵な老い方をしている人たちが少なくないからだ。それは学生時代の恩師であり、留学先でお世話になった駐在員の方々、である。ぼくにとって彼らは血気盛んなぼくを励ましてくれる、心強い存在なのだ。

 ぼくに限らず、若者はどうしたって血気盛んなのである。だから勢い余って時々失礼なことをする。けれどそれが何だっていうんだろうか。これこそが若者の輝きだろうに―。若者が萎縮して大いに語らなくなったらそれは世界の希望が潰えるときである。キケロはそこんとこをちゃんと分かっている。

 

「無謀は若い盛りの、深謀は老いゆく世代の、持ち前というわけだ」(p.26)

 

 さて、若者は人生をより豊かに過ごしたいと思っている。もっと世界の中で非凡な自身でありたいと願っている。世界に関与したいと大望を抱いている。けれど一方で、自身の至らなさを心のうちでは知っており、それを埋めたいとも思っている。古今東西若者とはそういうものである。そんな若者にとって、自身の成長を促してくれる思慮深い年長者は仰ぎ見るべき師なのである。尊敬できる師なのである。孔子の周りにも、ソクラテスの周りにも、やはり若者の姿は絶えなかったろう。古今東西おなじなのである。善き年長者であるキケロはそのことを見抜いていた。慧眼である。そのうえで、善き老人のあり方について、大カトーに以下のように語らせる。

 

「賢者は老人になっても稟性豊か青年に楽しみを見出すし、若者から敬い愛される人たちの老年は軽くなるものだが、同じように、青年たちも徳への専心へと導いてくれる老人の教訓を喜ぶのだ。わしがお前たちを喜ぶのに劣らず、わしもお前たちに喜ばれている、とも理解してるぞ」(p.31)

 

 一方で、どうしょうもない年長者というのは、たいてい若者に嫌われ疎んじられる。これは仕方のない事である。

 キケロの言葉の中には、どうしようもない年長者に聞かせてやりたいと思うものがたくさんある。若い女の子にちょっかいを出す全てのゲスどもに、あるいは若者へ無条件の服従を強いたがるサディスティックなゲスどもに聞かせてやりたいと思う。奴らは老いと向き合えていないのだ。ぼくは、漫然と老いてきた連中は尊敬には値しないと思っている。それが摂理というものであろう。この摂理に反してまで、尊敬を是が非でも得たいがために社会的肩書にすがる連中のなんと見苦しいことか。肩書なくして得られぬ尊敬は、しょせんは偽物ではあるまいか―。

 

「わしがこの談話全体をとおして褒めているのは、青年期の基礎の上に打ち建てられた老年だということだ。そこからまた、これは以前にも述べて大いに皆の賛同を得たことだが、言葉で自己弁護をしなければならぬ老年は惨めだ、ということになる。白髪も皺もにわかに権威に掴みかかることはできぬ。まっとうに生きた前半生は、最後に至って権威という果実を摘むのだ」(pp60-61)

 

 年長者との差は、しょせん生まれたのが数年早かったか遅かったかという些細な差に過ぎぬ、というのがぼくの持論だ。ぼくは心底そう思っている。従って、相手が自身より年長者であるか否かは、ぼくにとっては心からの敬意を示す絶対条件ではあり得ない。尊敬とは、自然と相手の内に喚起させるものなのだ。無理やり強いるものではあり得ない。

 全ての年長者が思慮深いとは限らない。品行方正であるとも限らないだろう。むしろ人生を成り行きで生きており、ただ消費のための消費、快楽のための快楽に耽ってきた連中だっているのだから。テレビ観てゲラゲラ笑っているだけの連中をぼくは「大人」とは認めない。絶対に―。「子供」だってそんな連中のお説教に説得力は見出さない。当たり前ではないか。この当たり前の摂理を、「年齢」の故を以て不当にも捻じ曲げようとする自称「大人」の方々には是非とも本書をご一読されるよう薦めたい。齢を重ねるということが如何に大変なことか、お分かりいただけるであろう。

 本書を通して、ぼくは一つの教訓を得る。善き生き方なくして、善き老後なし。これに尽きる。他人に威張ってばかりではなく、自身の生き方の清貧の内に尊敬に値する生を見出せ、ということなのであろう。

 そうそう。本書は古典である。古典の常として、本書でもなかなかおもしろい歴史上のエピソードがたくさん紹介されている。例えば、これとかおもしろい。

 

「僭主ペイシストラトスに対するソローンの返答がそのあたりの消息を伝えている。即ち『一体何を頼んでそんなに大胆に逆らうのか』と問われて、ソローンは『老年を』と答えたというのだ」(p.67)

 

 ソローンとは、改革者ソロンのことである。歴史に明るい人ならばピンときたのではないか。ソロンの如く善き老年を生きる者は、無敵である。僭主さえも恐れぬのである。

 さて。そういうわけで、久しぶりの岩波文庫でしたが、存分に楽しめました。お薦めです。

読書感想|今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』文春新書

 

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

あの有名企業も「ブラック」化している!
若者を使い捨て、日本の未来を奪う。その恐るべき手口とは?
1500件の労働相談が示す驚愕の事実。

いまや就活生の最大の恐怖「ブラック企業」。大量採用した正社員を、きわめて劣悪な条件で働かせ、うつ病から離職へ追いこみ、平然と「使い捨て」にする企業が続出しています。
著者は大学在学中からNPO法人POSSE代表として1500件を越える若者の労働相談に関わってきました。誰もが知る大手衣料量販店や老舗メーカーの新入社員集団離職など豊富な実例を元に、「ブラック企業の見分け方」「入ってしまった後の対処法」を指南します。
さらに恐るべきは、日本社会そのものがブラック企業の被害を受けているということ。若者の鬱病、医療費や生活保護の増大、少子化、消費者の安全崩壊、教育・介護サービスの低下――「日本劣化」の原因はここにあるといっても過言ではありません。その解決策まで視野に入れた、決定的な一冊です。

 

 著者は労働NPOの代表である。やはりブラック企業に使い捨てられた若者の悲痛な叫びを直に聞いておられるからだろうと思うが、文章に鬼気迫るものがある。ブラック企業はあの手この手で若者を食いものにしている。

 

「人格を傷つけるような暴言を含む異常なハラスメントの数々がまかり通るのは、常日頃から社員が恐怖によって支配され、社内の価値規範を強固に内面化しているからに他ならない。例えば、ここでいう社内の価値規範は、人事部執行役員による入社式の挨拶に端的に現れている。

 『お前たちはクズだ。異論はあるだろうが、社会に出たばかりのお前たちは何も知らないクズだ。その理由は、現時点で会社に利益をもたらすヤツが一人もいないからだ』

 『営利団体である企業にとって赤字は悪だ。利益をもたらせないヤツが給料をもらうということは悪以外の何物でもない。だから、お前たちは先輩社員が稼いできた利益を横取りしているクズなのだ』

 『クズだから早く人間になれ。人間になったら、価値を生める人材になり、会社に貢献するように』

これらはすべて執行役員の発言である。入社初日から、『新卒は歓迎されていない』ことを知らしめられた新入社員たちだったが、その翌日から始まる過酷な新人研修のなかで執行役員の『コスト=悪』という価値観を叩き込まれていく」(p.29)

 

 こんなの序の口。ブラック企業にとっては新卒など「クズ」にすぎないのだ―。本書では第一章「ブラック企業の実態」、第二章「若者を死に至らしめるブラック企業」で他にも多くの実例が紹介されている。胸くそ悪いことこの上ないが、さらに引用する。

 

「(前略)こうした行動の徹底的な管理の他に、企業理念や社の基本方針などを、とにかく暗記させられたという。『研修までにそれら(企業理念など)を覚えてこいといって宿題があって、入社式の前にもテストがありました。丸暗記してグループ全員で順番に唱えるというのもありましたね。連帯責任で』。そして、2~3時間かけても言えないグループは次の日まで続く。寝るまで、会場が閉まるまで、とにかく続く。この暗記に耐えられず、早くも辞めていく者がでる。

 『6人くらいでグループが組まれるんですけど、全員できないと合格にならない。うちの班で一人だけ覚えてこなかった人がいて、全員の前で「みなさんのお時間をください」って泣きながら言わされていました。あれはめちゃめちゃ辛かった。その女の子は一カ月で辞めましたね』

 『私のときも覚えてきてない人がいる班があって、その子が覚えるまでみんな寝ないで必死に覚える協力をしていました。覚えてきていないことで反感を買って、トラブルが起きている感じもありました』

 (中略)このように、ひたすら精神面の指導が行われる。研修では『感受性』という言葉が頻繁に用いられた。さらには、『手の挙げ方がきれいで笑っていないと、手を挙げていても挙げていないとみなされる』こともあった。

 はじめは違和感をもっていた新卒たちも、次第に『染まっていった』という。Aさん曰く『経営者に染まった方が楽ですね。染まれない方がつらいと思う。私も染まって、講師が質問を言い終わった瞬間、みんな我先に『ハイッ』と言うようになっていました」(pp.47-48)*前略・中略はブログ管理人。

 

 洗脳は洗脳と気付かれないうちに洗脳されるから洗脳なのである。あたりまえではあるが―。さて、労働者本人は洗脳された事に気付かない。場合によっては社会人として当然の洗礼ないし通過儀礼と考える。新卒ならば尚更、疑問を差し挟む余地はないであろう。よほど強靭な自我を保っているか、客観的に物事を考える訓練をしていなければ、組織の論理を絶対視することになろう。だって、組織の論理に抗うことよりも従うことの方が楽なのだから。

 ちなみにこれ、とある超大手・グローバル衣料品販売店の実話だそうだ。名前は伏せられているが、なんとなく社名に察しはつく。

 超大手と言えども安心はできない。ちょっとビックリするような話もある。ちなみに、月80時間以上の残業は厚生労働省の定める過労死ラインにふれる。

 

東京新聞が独自に行った調査によると、東証一部上場企業の売り上げ上位100社(2011年決算期)のうち、約7割が過労死ラインを超える36協定を提出していた。生理的に必要な睡眠時間を確保するような働き方は、多くの会社で未だに現実のものとなっていない」(p.96)

 

 数か月前だろうか。「寝ずに働いたぐらいで人からお金はもらえない」と語った大手証券会社の知人がいた。恐ろしいと思った。彼のこの言葉を額面通りに解釈するならば、それは違法労働を容認するということである。36協定も青天井ではない。彼は一社員の違法労働が会社全体に与える社会的損失を考えたことがあるのだろうか。違法労働を容認するコンプライアンス意識に乏しい彼が、得意げに(ラインで)語るのを見ながら、嗚呼、この人は違法労働に耐えることが立派な社会人だと「洗脳」されたのだなと思った。彼はまた彼の後輩たちにも同じスタンスで接するのだろう。違法労働の再生産である。

 そもそも日本型の雇用制度自体が変質してきたのである。この前提をふっ飛ばして「働け、働け、働け」とがむしゃらに言っても仕方ないと思う。本書を通してその思いを強くした。自身の経験を過剰に一般化して、若者の就労意識の低さにすべての責任を帰するのは暴論である。若者の意識の問題に情緒的にすり替えても、構造を論理的に分析しなくてはブラック企業の病理はみえてこない。そう思う。

 

「日本では厳しいノルマや長時間労働が課せられてきたが、それらは『くらいついていけば、将来がある』ものだった。しかし、ブラック企業の命令に従うと、戦略的に退職に追い込まれるかもしれない。本当に意味のある業務命令なのか、辞めさせるための業務命令なのか、それは、若者自身にはわからない。

 (中略)最近、『厳しく育てようとすると、パワハラだと感じる若者が増えている』というデータが各所で示されている。ブラック企業からの相談を受けている私からすると、これは若者の『受け止め方』の問題ではなく、実際にブラック企業という『リスク』が存在するために自然と発生した自衛的な思考である」(p.168)

 

 その通りだと思う。ブラック企業の存在で最も被害を被っているのは、本来は就業意欲溢れるにも拘らず、夢も希望も踏みにじられた若者、そしてその他多くの「まともな企業」である。

 

「若者の企業に対する信頼を、社会総体の中で解体させてしまったことにこそ、ブラック企業の罪悪がある」(p.168)

 

 ブラック企業の発生原因として、終身雇用制と年功賃金制を軸とする日本型雇用とブラック企業との構造的な親和性は別途考えなくてはならないと思う。このあたりの話はぼくも今、いろいろ考えている最中である。

 しかし一方で、個人のレヴェルで何をするべきか、という点も考えるべきであろう。本書を通して強く感じたのは、自身の身を守るのは、結局は自分。そのために社会の不条理と対峙する「備え」をしておく必要があるということ、である。それは、本書で著者が示す「戦略的思考」という発想と連結する。著者は、

  1. 自分が悪いと思わないこと、
  2. 会社が言うことは疑ってかかること、
  3. 簡単に諦めないこと、
  4. 労働法を活用すること、
  5. 専門家を活用すること、

を、「鬱(うつ)病になる前の戦略的思考」として提唱する。中でもぼくが面白いと感じた指摘は②に関連している部分である。以下、引用する。

 

ブラック企業は若者を使いつぶす戦略を持って、向かってくるのだ。

 したがって、自分の身を守るためには、とにかく『疑ってかかる』目線が必要になる。(中略)Yの事例では、度重なるカウンセリングとハラスメントによって鬱病に至っていたが、彼らにハラスメントを繰り返していた上司は、実は『慕われていた』。ハラスメントが続く日々の中、ある日の休み時間にキャッチボールにつきあってくれた、というのがその理由だ。不満が会社に向かわないように、一瞬『やさしく』接する。これも戦略の内だったわけだ」(p.127)

 

 なかなか胸くそ悪い話が満載であるが、汚いものは見ない。見なかったことにする。というのでは、ブラック企業の思う壺である。ぼくは大学ではむしろこういう汚い部分への対処法をこそ教えるべきだと思う。ふわふわと宙に浮いた抽象論ばかりやっていても仕方ない。一回生からキャリアの話したって仕方がない。

 

「本来キャリア教育には、権利教育としての側面もあり、これによって違法状態への対応能力を身に付けさせることもできるはずだ。ブラック企業は最大の『キャリアの敵』なのであるから、ここから身を守る方法を、子供たちに教えるべきだ」(p.224)

 

 それこそ、ブラック企業の経営者を講演に呼んでもよいし、労働NPOの職員と論争させてもよいと思う。上述した証券会社の彼を呼んできて、「寝ずに働くことの妥当性」を語ってもらってもよい。なにより社会の暗部を知ることは、生き抜く上できっと有益であろう。「悪の現象学」とか銘打って講義にしてみようではないか。いかがだろうか―。

読書感想|ジュール・ヴェルヌ(波多野完治訳)『十五少年漂流記』新潮文庫

 

十五少年漂流記 (新潮文庫)

十五少年漂流記 (新潮文庫)

 

内容紹介(Amazon商品説明より)

14歳のゴードンを頭に15人の少年たちだけを乗せたスクーナー船が、ふとしたことから荒海に出てしまった。大嵐にもまれたすえ、船は、とある岸辺に座礁。島か大陸の一部かもわからないこの土地で、彼らは生きるためにさまざまな工夫を重ね、持ち前の知恵と勇気と好奇心とを使って、スリルに満ちた生活を繰りひろげる……。“SFの祖"ジュール・ヴェルヌによる冒険小説の完訳決定版。

 

 とびっきり元気がでる本というのがある。だいだいそういうのは読んでいてワクワクする。そういう本である。そうでなくてはならない。

 読む前も愉しいし、読んでいる最中も愉しいし、読んだ後も愉しい、という塩梅で、兎にも角にも徹頭徹尾愉しい本でなくてはならない。ヴェルヌの十五少年漂流記はそんな愉しい本の一つだ。

 そもそも十五少年漂流記というタイトルがよい。分かりやすい。十五人の少年が漂流する冒険物語なのだなと一目で察しが付くだろう。じっさいその通りで、看板に偽りはなく、この本ではほぼ少年たちしかでてこない。彼らが漂着した未知の土地でサバイバルを繰り広げる。さしものTOKIOも顔負けのサバイバルぶりである。

 

「フヮンが、穴の一つに花を突っ込んでクンクン匂いをかいでいたが、そのうち、爪で土をかきだした。穴は、兎の巣らしかった。

 ドノバンは、すぐさま肩の鉄砲をはずした。だが、ゴードンが引き止めた。

 『弾丸を節約しよう』

 『残念だな、うまい朝飯ができるのに』

 その時、ウィルコックスが口を開いた。

 『ドノバン、僕に任せてくれ、一発の弾丸も使わずに捕らえてみせる』

 『どうするんだ』

 『煙でいぶし出すのさ』

 ウィルコックスは、枯草の束を作ると穴に詰めた。そして、火を放った。煙が立ち上り出してから、一分もかからなかった。穴からは、兎が次々に飛び出して来た。待ち構えていたサービスとウェッブが、手斧を振り下ろした。フヮンも兎にとびかかった。収穫は全部で十二羽だ」(pp.129-130)

 

 どうだろう。すごくサバイバルじゃないか―。TOKIOも手斧で兎を仕留めはしまい。彼らは兎の他にも、ペンギンとか海亀とかアザラシとか駝鳥(だちょう)とか、なんでも捌(さば)いてゆく。なかなか現代人が手斧で動物をしとめるのは度胸がいると思うが、むしろ子供の方がそういうことを平気でできるのかもしれない。

 本書はサバイバル冒険小説であると同時に、子供たちの成長物語でもある。いろいろな苦難を一致団結して乗り越えてゆく。そんなお話。喧嘩もするし、失敗もする。でもきっちり和解できるし、みんなで失敗を取り返す。和解するふりだけじゃなくって、きっちり仲良くなれる。きちんと喧嘩するから仲良くなれるのだろう。ブリアンとドノバンもちゃんとぶつかり合う。だから仲良くなれるのだ。中途半端な面従腹背では仲良くはなれないし、互いを知ることはできない。このあたり、陰険な大人よりもすっきりしていてぼくは好きだ。

 そもそもヴェルヌの書く小説には陰険な人物というのがあんまりいないらしい。以下、訳者による解説から引用する。

 

「ヴェルヌの小説には、あまり悪人がでてきません。科学者でエキセントリックな人はありますが、それもけっきょく、科学にこりすぎて人類全体を忘れた人です。つまり、ある目的にむかって、ひたむきにすすむ、男性的な人物が主人公であって、いんけんな人や、弱気な人はいないのです。(中略)ヴェルヌの小説は、人間の積極面、健康面をえがいた楽天小説なのです」(p.276)*原文ママ、中略はブログ管理人。

 

 こと本書では、人望厚い主人公格のブリアンに嫉妬する少年や、とある事情から弱気になるブリアンの弟も登場するが、いろんな出来事を通して成長してゆく。そういう意味では「陰険さ」は少ないのかもしれない。それは本書に登場する「大人」の少なさとも関係するのかもしれない。いや、別に大人=陰険というわけではない。これは良識派を目指している大人の一人として強調しておきたいところ。

 でもヴェルヌも、どっちかというと、大人のドロドロした汚い部分はあんまり好きになれないタイプだったんじゃないかと、そう思う。以下、訳者による解説の引用。

 

「ジュールは小さいときから冒険好きで、十歳のとき、本当に海にのりだそうと思って、家出をしました。すぐつかまって、大こごとをくいました。このとき、彼は母親にいったということです。

『これからはアタマの中だけで空想の冒険をします』と。

 本当にそうでした。彼は一生涯に約六十冊ほどの小説をかきましたが、それはほとんどが、冒険の旅行のおはなしでした。その旅行は地球のまんなかから、月の世界、北極、南極のあらゆるところにわたっています」(pp.272-273)*原文ママ

 

 子供心を忘れなかったヴェルヌは、この物語をある程度、児童向けとして意識したのだろう。けれどそれは反射的効果として大人に向けたメッセージともなるはずだ。だって大人が子供に児童書を買い与えるのだから。

 ぼくら大人はここから如何なるメッセージを汲み取るべきか。

 

「ブリアンは、ジェンキンスやドールたちがゴードンに叱られているのを見て、何度となくかばってやった。幼い少年たちには、ブリアンが大統領だったらという気持ちが芽生えていた。

そんな小さなことで―と思うかもしれない。だが、少年たちの世界は社会の縮図である。人間は、子供の時から、一人前の大人のように扱ってもらいたいものなのだ」(pp.165-166)

 

 とかく大人は子供を舐めてかかるものだ。でも子供はちゃんと考えている。これは大人が思っている以上に。子供の力を侮ってはいけない。もちろん子供は腕力では大人にはかなわない。

 

「スルギ号の甲板には、四人の少年の姿があった。十四歳が一人、十三歳が二人、あとの一人は十二歳になる黒人の少年である。

少年たちは、いま、全力を出して、舵輪を握り、船を正しい進路に向けるために戦っているのだ。だが、舵輪は、少年たちのか弱い力では、いくら押さえつけても、元にもどってしまう」(p.6)

 

 これは仕方ない。じゃあ、大人は全てにおいて子供に勝っていると言えるのか。彼らの持つすべてをぼくたちが持っていると言いきれるのか。そうだ、と言いきるには、いささか心もとなくはないか。

 

「さて、この書『十五少年漂流記』(二カ年間の夏休み)から引き出される教訓は、簡単に言えば次のようになる。

 もちろん、今後、いかなる小中学生も、このような夏休みを送ることはあり得ない。だがなんであれ困難に直面した時に、勤勉、勇気、思慮、熱心の四つがあれば、少年たちでも必ずそれに打ち勝つことができるということだ」(p.271)*太字はブログ管理人。

 

 この一言にヴェルヌのメッセージが凝縮されている。このメッセージの宛先は少年たちばかりではない。ぼくたち大人にこそ向けられている。勤勉、勇気、思慮、熱心をぼくたちはちゃんとまだ持っているか。そうヴェルヌは問うている。そんなふうに思えてならない。冒険物語にこうも元気づけられるというのは、少年たちが持っている何かをぼくたちが喪失したからなのだろうか―。

 多忙さの余り、ワクワクする気持ちを久しく忘れてしまっている人にこそ薦めたい一冊―、十五少年漂流記という冒険譚である。

 メルシー・ブォク!ムシュー・ヴェルヌ。

読書感想|林良祐『世界一のトイレ』朝日新書

 

世界一のトイレ ウォシュレット開発物語 (朝日新書)

世界一のトイレ ウォシュレット開発物語 (朝日新書)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

おしり洗いから、脱臭、ふたのオート開閉などのハイテク機能の数々は、「かゆいところに手が届く」「至れり尽くせり」「心配り」といった日本人ならではの繊細な感性と、徹底したものづくりの姿勢から誕生した。ガラパゴス的に開発されながら、なぜ世界で受け入れられていったのか。

 

 ぼくは純文系の人間だ。法学とか哲学とか歴史ばっかりやっていた。けれど、いや、だからというべきか、ぼくは理系の人たちに憧れを持っている。ほんとうに尊敬している。羨んですらいる。

 彼らの何が羨ましいかというと、何かを創造できるということが羨ましいのだ。一縷のひらめきを、技術を以てして具現化する。ハンナ・アレントが、ジョン・ロック流の、どこか牧歌的な「労働」とは区別される、「仕事」と呼んだもの。この知的営為のあり方が羨ましいのだ。

 

「労働し、『混ぜ合わせる』〈労働する動物〉とは違って〈工作人〉は、物を作り、文字通り『仕事をする』。いいかえると、わが肉体の労働と違って、わが手の仕事は、無限といっていいほど多種多様なものを製作する。このような物の総計全体が人間の工作物を成すのである。これらの物は、すべてがそうであるのではないにしても、ほとんどが、使用の対象であり、ロックによれば、財産となるのに必要な耐久性と、アダム・スミスによれば、交換市場に入るのに必要な価値を持っている。その上、これらの物は、マルクスが人間本性の印だと信じた生産力を証明する。それは、適切に使用されれば消滅することはない。実際、これらの工作物には安定と固さが与えられている。この安定と固さがなければ、人間の工作物は、不安定で死すべき被造物である人間に、住処を与える拠り所とはならないだろう」ハンナ・アレント(志水速雄訳)『人間の条件』ちくま学芸文庫(p.223)

 

 彼らのつくったものは文化としてこの世界に刻印される。この世界を変革する。彼らの死後さえも滞留しつづける。この世界の中で、脆弱であることを宿命づけられたぼくたち人間の「住処を与える拠り所」となる。

 そうした有史以来、人間が脈々と続けてきたリレーを走るという崇高さと偉大さ。それを会社とか研究所とかで、お給料をもらいながら仕事としてやっていけるという、その職人としての一貫した生き方が羨ましいのだ。

 

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

 やや前置きが長くなってしまった。今日は世界一のトイレの話。副題はウォシュレット開発物語。なかなかキャッチーなタイトルだ。

 本書は、日本を代表する衛生陶器メーカー・TOTO、そうあのトイレのTOTOの一開発技術者が「ウォシュレット」や「音姫」などを開発するに至った経緯を赤裸々に語る「開発秘話」なのだが、これがどうしてなかなかにおもしろい。

 なにがおもしろいかというと、技術者の人たちはものを造るという中で、消費者が想像もしえないような試行錯誤をしているのだな、ということ。この、純文系人間にはなかなか見えない世界を垣間見るのがおもしろい。例えば、これとかそうである。

 

「TOTOが行ったウォシュレットを使用している人へのアンケートで、ウォシュレットを選んだ理由の1つに洗浄機能が挙げられる。おしり洗浄は『アンダーウェーブ洗浄』以降もいろいろな洗浄機の改善を行っている。しかし、ビデ洗浄は、おしり洗浄と比べると自信を持って満足いただけるとは言い難く、ビデ洗浄の改善に取り組む必要があった。

 女性のデリケートゾーンに対する悩みとして、『生理中だからこそ清潔さを保ちたい』『デリケートなエリアだからやさしくケアしたい』という声が上がっていた。その日の体調や状況、あるいは気分で使い分けができるよう、従来のビデ洗浄に加え、広範囲をやさしく洗うことのできる『ワイドビデ洗浄』を開発した。

 ここでもまた、女性開発者の“名言”が飛び出したのだが、そのうちのひとつが、『おしり洗浄の水で目を洗えますか?』。おしり洗浄は汚れを洗い落とす行為だが、ビデは粘膜を洗うので、もっとやさしく洗わなくてはいけないということを表現した言葉だ。この名言のおかげで、男性開発者は、『目におしり洗浄は痛いだろう』と具体的にイメージすることができた。また直径40ミリの範囲を均一に洗うことを目指したが、男性開発者にはわかりにくいので、手をかざしてちょうど手のひらが一斉に洗える感覚で確認した。これは社内で『手ビデ』という言葉として頻繁に使用され、流行語になった。

 (中略)洗いたいところをスポット的に洗う『ビデ洗浄』と、デリケートゾーンをさっと広範囲に洗う『ワイドビデ洗浄』。20代から60代の、92%の女性モニターからは、使い分けの快適さと便利さを支持する声が届いている」(pp.160-161)*中略はブログ管理人。

 

 どうだろう。ここまで考えているのか、とちょっと驚く。ぼくは池井戸潤下町ロケットの世界を思いだしていた。あれもロケット部品の技術開発に情熱をかける人たちの話だった。 

 

下町ロケット (小学館文庫)

下町ロケット (小学館文庫)

 

 

 ぼくはやっぱり理系の人の生き方をすごく羨ましく思う。彼らのよいところは、かつてやってた事と、今やっている事との一致に尽きる。その連続性を羨ましく思う。学生時代にやってきた技術的な研究―、それに基づく「よいものを造りたい」という職人として当然有すべき個人的な思いと、「よいものをお客さんに提供したい」という企業人としての要請が一致している。なので、この人たちの言葉には嘘くささがないのだ。

 「おしり洗浄の水で目を洗えますか」、あるいは、本書の中で飛び出すもう一つの名言「ノズルを舐められますか」というような視点―、

 

「2011年9月現在、TOTOのトイレにおける最新技術は、ウォシュレットにおける『電解除菌ノズル洗浄』と、『ワイドビデ洗浄』である。

 『ノズルが清潔だと言い張るのなら、舐められますか?私たち女性は、舐めることができるくらいきれいじゃないと、清潔だと言わないんです』

 ウォシュレットの女性開発担当者から、このように言われたことが、今回の『電解除菌水ノズル洗浄』を搭載するきっかけになった。『清潔』の指標は、ペットボトルの飲み口よりもきれいであること、である」(p.156)

 

 こういう言葉のどこにも嘘はない。そこにあるのは技術者として「こだわり」である。技術革新への愚直さである。良いものを造るぞ、もっと世の中便利にするぞ、買ってくれた人を満足させるぞ、という開発者としての妥協を許さぬ意気込みなのだ。そして技術の革新は文化の創出でもある。

 例えば、本書の中では「音姫」開発の話は、技術と文化の交錯をみごとに示している。

 

「女性なら誰でも知っているが、男性でその存在を知る人は少ない―。トイレ用擬音装置音姫』のことである。音を発生させて、排尿や排便の排泄音を消す、TOTOが1988年5月に発売した商品だ。

 他人にトイレの音を聞かれると恥ずかしい。そのため、多くの女性が公衆トイレで、用を足す間にも水を流すという、いわゆる『二度流し』を行っていた。ちなみに、この習慣は日本女性特有のもので、海外では見られない現象だという。

 (中略)TOTOのデータによれば、トイレ用擬音装置がない場合、女性が水を流す回数は平均2・3回で、余分に消費している水の量は約17リットルにものぼる。『二度流し』というより、出しっぱなしにしたり、2回以上流す人もいるのだ。明らかに水資源の無駄遣いであり、公衆トイレを設置している側にとっては、水道料金やトイレの維持コストにも響いてしまう」(p.119)

 

 ああ、知れば知る程おもしろそうな仕事ではないか。技術家とは文化の担い手でもあったのか。技術者の世界も良いことばかりではないのだろうが、他人の芝生は青く見えるもので、いろいろと羨望を惹起させられる。下町ロケット然り、本書然り。

 本書はTOTOの一技術開発者が、技術者としての半生を顧みるものであった。技術者の半生の記述とは即ち、社会の技術革新の足跡をたどる技術史的な史料価値を有することに疑いの余地はないと思われるが、決してそれだけにとどまるものではない。新しい技術が市井の人々の生活様式をも変えるのだとすれば、それは生活史ないし市民の風俗史という側面も有するし、また文化史でもある。あるいは一開発技術者の人間ドラマとしても読むことができる。そういう意味ではいろいろな読み方のできる一冊と言えるのではないか。

 そうそう。福岡県小倉市TOTOミュージアムというのがある。こちらはトイレの技術史、生活史ないし風俗史を知ることができておもしろい。ぼくも数日前に訪れたが、なかなか見ごたえのある展示だった。ぼくのような技術方面の話題に疎い純文系人間でも楽しめるような工夫が随所になされている。興味のある方は足を運ばれてはいかがだろうか。

読書感想|稲葉陽二『企業不祥事はなぜ起きるのか』中公新書

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

東芝の不正会計や三菱自工リコール隠しなど、企業の存続をゆるがす不祥事が続発している。なぜこのような問題が起きるのか。東証一部上場の百社以上を分析し、「不祥事を起こしやすい会社」をモデル化した著者は、トップの暴走とそれを止められない社内風土=企業内のソーシャル・キャピタルに原因があるとする。「強いリーダーシップ」や「各部門のサイロ化」が危ないなど、意外な知見も。あなたの会社は大丈夫か?

 

 企業不祥事のニュースには事欠かない。大なり小なり日々何かしらの企業不祥事が起こっているのではないかと錯覚する。東芝粉飾決算フォルクスワーゲン三菱自動車の性能データ改竄、電通の過労死自殺、など最近だけでもいろいろと思い当たる。そんな状況を目にする度に、嗚呼、まともな企業はどこにあるのか。もしや、まともな企業など存在しないのだろうか。と嘆かずにはいられない。

 この沈痛な叫びの背景にあるのは、企業不祥事はなぜ起きるのか、という問いである。企業不祥事がない会社は少なくとも「まとも」な会社であるのだから。それでは、不祥事を起こさないためにはどのような企業像が望ましいのか。そんな純粋無垢な疑問に対して、本書はソーシャル・キャピタルという視点から一定の回答をあたえる。―即ち、強すぎる絆は会社をこわす、ということ。ぼくは本書の主張をそう理解した。

 ソーシャル・キャピタルとは何か。本書においては、以下のように定義されている。

 

「本書では、社会関係資本の定義を『外部性(当事者だけではなく周囲の第三者にも影響を及ぼすこと)を伴う会社内外のネットワークとその結果として生まれる社内規範と相互信頼』としている」(p.69)

 

 ぶっちゃけ、これだけではよく分からない。しかしそもそも社会関係資本なる概念が多くの概念を包括的に捉えたものなので、致し方ない面もあると思う。これは著者も認めているとおり。なので、ぼくはさしあたり、社会関係資本ソーシャル・キャピタル=人的な絆、と、ざっくり捉えてもよいと思う。

 ところで、このソーシャル・キャピタル。ぼくは今までこの言葉はポジティブな意味合いを持つものだと理解していたのだけれど、どうも必ずしもポジティブなだけではないらしい。

 

「エリック・アスレイナーらの内輪の人々のネットワークである結束型社会関係資本のダークサイド論とは、内輪のグループの結束が強いとグループ外への信用や寛容性が損なわれ、腐敗行為に走りやすくなるという理論である。この議論に付随するものとして、ロバート・パットナムら複数の論者がグループ外の結束が高いということは、そのグループに属さないものを疎外していることにほかならないという論点がある」(p.76)

 

 よっしゃ、みんな引き締まっていこう。うぇーい。という感じの結束型社会関係資本は、その、うぇーい、という輪の中の者の間では結束や規範を強化する一方で、うぇーい、という輪の外の者に対する意思疎通を忌避ないし排除する方向に働くことも多い(尚、前者を「正の外部性」、後者を「負の外部性」と呼ぶ。もとは経済学用語である)。―どうだろう。思い当たる節はないだろうか。

 ぼくは内輪の結束自体は別に悪いことではないと思う。実際、そうした関係性で安心感や充足感を得てきたと思うこともある。でもそれは、極めてプライベートな領域での、お友達関係の話にとどまるべきであろう。パブリックな領域で、この結束型社会関係資本のダークサイドに無頓着であることは危険だと思う。このダークサイドが企業不祥事の遠因の一つである可能性を著者は指摘する。ぼくはこの指摘と論証に十分納得させられた。

 その点について、面白いな、とおもったのが、このアンケート調査。―さて、みなさん。とくに会社員のみなさん。幾つ当てはまりますか。

 

「(前略)彼らの質問票は十二項目(①口は出すが責任はとらない、②機能別の利害に固執、③一人でもごねると大変、④戦略審美眼に優れたミドルが多い、⑤自分の痛みと感じない人が多い、⑥わが社のトップは優秀、⑦内向きの合意形成、⑧メンツを重視しているだけ、⑨わが社のトップ層は政治的、⑩決断が不足している、⑪激しい議論は子供だと思われる、⑫対立回避するヤツが出世する)からなるが、その中身は基本的に社会関係資本の負の外部性そのものである。なお、上記の④と⑥は肯定的な回答が少ないほど組織劣化が進んでいるという項目である。

 たとえば、機能別の利害に固執、一人でもごねると大変、自分の痛みと感じないヤツが多い、内向きの合意形成、メンツを重視しているだけ、対立回避するヤツが出世する、などはいずれも、内輪の仲間同士の強い結束型社会関係資本の負の外部性にほかならない。内輪の仲間同士の強い結束型社会関係資本が形成されていると、仲間同士の信頼は厚くなるが、グループ外の人々や組織に対しては無関心や無頓着になる。グループ内の『機能別の利害に固執』し『内向きの合意形成』に走る。組織の内部では、組織間の結束を強化する能力が重視され『対立回避するヤツが出世する』が、その特定のグループ外にいる人々からみればそのグループのメンバーは『自分の痛みと感じない人が多い』『メンツを重視しているだけ』であり、『一人でもごねると大変』ということになる」(pp.184-185)*前略はブログ管理人。

 

 どうだろう。ちょっとドキッとするのではないか。ドキッとした人の組織は企業不祥事の発生要素をかかえていると言える。ドキッとしなかった人の組織は、健全優良企業であるか、あるいは逆に、既に末期であるか。末期症状の自覚があるから、いまさらドキッとはしない、ということなのだろうか。

 

 それにしても日本の企業はちょっと変だ、と思う。

 変だ、変だ、とは思ってはいたが、この思いは今でも拭いきれない。どういうところが変かというと、例えば、幾人かの知人諸氏。彼らは、たとえ如何なる理不尽に直面しても、「それが社会だよ」と半ば思考停止的に達観してみせる。「理不尽に耐えることが社会人になること」などと禁欲主義者顔負けの忍耐強さを発揮する。彼らはなぜそこまで思考を停止させられるのだろうか。

 ぼくは彼らを観ていてちょっと怖くなる。彼らの姿がアドルフ・アイヒマンと重なるからだろうか。悪は必ずしも巨悪ではない。往々にして凡庸なのだ。

 

 

 

  もちろん忍耐も大切。けれどそれら行動の根底にあるのは、とどのつまり、自身の行動の結果責任を巧妙に回避ないし正当化する「事なかれ主義」ではないか。それは本来的には企業の中長期的利益にとってはプラスになるものではないとの認識が、本書を通じて、一定程度確信に変わった。

 理不尽に対して理不尽だ、と抗う余地のない組織が正常であるなどと彼らだって本気では思っていまい。彼らの事なかれ主義はいわば自己暗示である。上司の顔色を窺わなくてはならぬ。同僚の中で悪目立ちしたくない。いじめられたくない。せっかく手に入れた大企業のステータスを手放したくない。これらはひとえに自己の保身―もっと突き詰めるならば、「自己保存欲求」からきているとぼくは理解している。そういう意味では至極理解できる気持ちである。

 けれど、そういう強い絆、いや、ある意味では内輪の中だけを意識して「忌憚のない議論の応酬」の可能性が完全に摘み取られているという意味では、むしろ「弱い絆」とも言えるかもしれないが―、この類の「絆」なるもの(その負の外部性)によって雁字搦めになっている企業は不祥事を引き起こす余地がある、ということだ。

 そして企業不祥事は、社長の謝罪で片のつく問題ではない。とんでもない事件を引き起こすこともある。

 

「二〇〇四年三月にはまたしても三菱自工から二〇〇三年に分離したトラック・バス部門である三菱ふそうトラック・バスリコール隠しが発覚した。三菱製の大型車で絶対に壊れてはいけない部品であるハブの破損によりタイヤが外れるというもので、二〇〇二年一月には横浜で外れたタイヤが通りすがりの母子三人を死傷させる痛ましい事故まで発生させていた。(中略)三菱ふそうは整備不良と主張する一方で、社内では設計ミスによるものと認識し約十二万四〇〇〇台のヤミ改修を実施していた。また、欠陥を抱えたバスとトラックは一九九〇年代から三菱自工によって製造されていたにもかかわらず、三菱ふそう(二〇〇三年からダイムラー・クライスラーの傘下に入った企業)は、三菱自工とは無関係とする無責任な立場をとっていた」(p.123)

 

 きっと事なかれ主義者にとって、この「内輪」の外の死傷者のことはどうでもよいのだろう。ああ、人が死んだんですね。そうですか。それは悲しいことですね。慰謝料は会社が払いますからね。残念でしたね、と。所詮はこの程度なのだろう。大切なのは、内輪の評価と出世と金儲け。いやはや大した絆の強さではないか。

 もしかすると、この設計ミス隠しに疑義を差しはさんだ人もいたかもしれない。ぼくはきっといたと信じている。けれど、きっとその人は「一人でもごねると大変」だからと激しく叱責され、そのあとで別の上司なり同僚なりに猫なで声で「理不尽に耐えることが社会人になることだよ」と諭され、「そうか。まあいいか。社会はそういうもんだよね」と諦観するに至ったのだろう、と、ぼくは状況を推しはかる。

 自称「社会人」である大人の方々は、こういう事態をどう考えるのだろうか。彼らの事なかれ主義に不祥事の温床を、危うさを感じるのはぼくが社会人として未熟だからなのだろうか―。

 絆という言葉を悪用するのではなく、もっと真剣に考え直すべきだと思う。