青年モラトリアムの読書譚

人生のモラトリアム真っ只中の青年が、読んだり、考えたりするブログです。

読書感想|池上彰、竹内政明『書く力』朝日新書

 

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

 

内容(「BOOK」データベースより)

ついに夢の対談が実現!個性的でありながら、多くの人に読んでもらえる文章の書き方とは?わかりやすく切れ味のよい文章の第一人者・池上彰さんと、「読売新聞の一面を下から読ませる」当代一のコラムニスト・竹内政明さんは、どのようにして文章を磨いてきたのか。テーマの決め方、構成方法、稚拙な表現からの脱出法などを、惜しみなく披露する。作文の魅力がわかり、どんどん文章が書きたくなる一冊!

 

 何かを書くのは難しい。これはホントに難しい。こうやってブログを始めてみて、あらためてよくわかった。

 自分の書いたものを読み返してみてみると、十中八九、自己嫌悪してしまう。「あれ、こんなに書くの下手だったかな、俺」と、こんな具合に。あれも書き足りない、これは書きすぎた、と思ってしまう。

 

 けれど、プロのジャーナリストでさえも、書くということにはやはり頭を悩ますようで、池上さんも、竹内さんも、名文を生み出すために日々試行錯誤を重ねている様子が文中の端々からうかがえる。

 僕が普段ものを書くときに悩んでいるのと似たような悩みを、プロの方々も抱きながら日々名文をこしらえているのだなと知るにつけて、僕のような凡人はホッとしてしまう。

 例えば、竹内さんと池上さんのこのやりとり。思わずホッとする。

 

 「竹内 読者のことを考えながら書く。これはもちろん大事なことです。ただ、そんなに簡単なことではありませんね。新聞の世界では、『中学生でも分かるように書く』というのが一応の目標になっているんですけど、私は守れていません。それこそ古典の引用をした瞬間に、大方の中学生はお手上げでしょうから。それに常用漢字でなくても『この表現が必要だ』と思ったら、私はルビを振って使ってしまいます。例えば、『沙汰の限りである』なんて言い回し、大好きで愛用しています。同じ意味でも、『言語道断である』だと政治家の国会質問みたいで味も素っ気もないけれど、『沙汰の限りである』は名優のセリフを聴いているようで心地よい。知らない言葉があっても、ある程度は辞書を引いて読んでほしいという気持ちも、どこかにありますね。

 池上 そこはおっしゃる通りですね。いくら『読者を意識して、読者に伝わるように書く』といっても、日本語には美しい言葉がたくさんあるんです。私もできるだけ、趣のある言葉を使っていきたいのですが、この言葉を使っても『理解してもらえない』ことが増えてきています。これは困りますよね。例えば、小学生向けの番組や記事なのに、ちょっと工夫した言い回しをしてしまうと、読者に理解してもらえない。これは寂しいことですよね」(p.140)*原文ママ、太字はブログ管理人

 

 このやりとりを読んで、そうそう、よくぞ言ってくれた。と、二人に握手をしたい気分にかられた。

 言葉尻をとらえて、本意を曲解されるということはよくあること。けれど、やっぱり文脈とか背景を度外視して、やれ失言だ、やれ言い訳だ、と声高に叫ぶ連中にはほとほと呆れるばかりである。

 

池上 私も原稿を書いているときは、常に言い訳を考えています。その上、それでもつけ込まれたらどうしようと、心配しながら書いています。

 竹内 どうしても防衛本能は働きますよね。文章で世渡りをしていれば、ごちゃごちゃ言われるのも商売のうちですが、批判されるのは嫌なものです。申し開きが通ったとしても、後味は悪い。」(p.140)

 

 自身の思考の深さが足りなくて、内容的な批判を受けるのならば、これは十分理解できる。けれども、こちらの真意を吟味することもなく、特定の言葉に脊椎反射的に反応する連中も少なくないのだ。瑣末事をとらえて「失言だ、言い訳だ」とのたまう。これは、やはり誠実に話している身としては、気持ちのよいものではない。

 とはいえ、聞き手や読み手の愚かしさを、話し手や書き手が改めさせることはできない。むしろそういう相手の愚かしさも計算に入れて、言葉をあやつれてこそ「プロ」に値するということなのだろう。

 このやりとりを読んでいて、池上氏と竹内氏の姿勢にプロとしての矜持を感じるとともに、自身のわきの甘さを反省した。

 

 一方で、ドキッとするようなやりとりもある。

 

竹内 『機会』という言葉を使うのに適した場所というのは、読者が『へえ』とか『ほお』とか、そういう感嘆が自然と上がるような場面だろうと思うんです。例えば、読売新聞の社員である私が、『先日、築地にある朝日新聞社の社員食堂でカレーライスを食べる機会があった』と書けば、読者としては、『へえ、読売の人がライバルの朝日に飯を食いに行ったのか。何でだろう』と、ちょっとした『へえ』が付く。でももし、私が『大手町にある読売新聞の社員食堂でカレーライスを食べる機会があった』と書いても、読者は『へえ』とは思わない。お前の会社だ、カレーでもカツ丼でも、なんでも食えよ、と言われるのがオチです。こういう場合に『機会』は似合わない」(p.190)

 

 「機会を得て」は、僕も無意識でやってしまいます。使い勝手があまりに良いですから、このフレーズは。でも言われてみれば、たしかにニュートラルな言葉ではないですね。猛省・・・。

 

 言葉の選定は純粋に自身の言葉の選好―つまり言葉の好みにもよるのでしょうが、やはり誤解を招く言葉や言葉自体が帯びる印象というものに配慮は必要なのでしょう。

 それから、お二人が俎上に載せているもので、僕も同感なのが、この表現。

 

池上 あと、テレビ用語で、私が最も嫌だなと感じているのは、『○○したいと思います』という表現です。『○○しましょう』で十分ですよね。テレビの台本の原稿にも『○○したいと思います』がたくさん書いてあるので、私は勝手に直して『見てみましょう』とか『参りましょう』とか、言い直しています」(p.70)

 

 「○○したいと思います」はいろいろなところで耳にします。就職活動の集団面接なんかでもよく耳にしました。この表現の、何とも形容しがたい耳触りの悪さを苦々しく思っていた僕は、池上さんのこの指摘に大変共感しました。

 

 間違ってないし、意図もわかる。なんなら政治家や芸能人も使っている。けれど違和感がある。でも人によっては違和感がなかったりする。でもって、聞き手や読み手がこの言葉に鈍感ならばきっとお咎めなし。彼ら彼女らが、たまたまこの言葉に敏感ならば「正しい敬語を使え」と叱責される。

 ・・・・・・難しいですね。言葉って。僕はこういう状況に、そこはかとない理不尽さを感じてしまいます。

 けれど、とくに「政治的正しさ(political correctness)」が「政治(politics)」というフィールドを超えて重視される世の中では、僕らのような一般人も殊更に言葉の使い方に気を回す必要があるということなのでしょうね。そういう国、そういう社会、そういう時代なのでしょう。

 で、そういう国、社会、時代にあって、プロのジャーナリストの作法から学ぶべきところは多いと思っています。