青年モラトリアムの読書譚

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読書感想|内山融『小泉政権』中公新書

 

小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書)

小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

21世紀最初の4月、世論を背景に首相に就いた小泉純一郎靖国参拝北朝鮮訪問、郵政解散など、政権の5年5ヵ月は、受動的イメージだった日本の首相を、強いリーダーシップを発揮し得る存在に変えた。一方で、政権は「抵抗勢力」=派閥・族議員、官僚と対峙する上で、世論を頼みとし、人々の理性より情念に訴え続ける。新自由主義的政策を強く進めた内政、混迷を深めた外交を精緻に追い、政権の功罪と歴史的意義を記す。

 

 タイトルは小泉政権小泉純一郎の伝記的なものではない。小泉内閣の登場が日本政治の何を変えたのか、について考えることに主眼がおかれている。

 小泉在任中の内政、外政について分析し、おおむね前者を肯定的に、後者を否定的に捉えている。元通産(現・経済産業省)官僚で、政治学者の著者による学者らしく冷静な筆致は一貫しており好感がもてる。そういう意味では、小泉純一郎個人のカリスマに全てを帰する乱暴な政治論ではもちろんない。

 とはいえ、小泉さんの強烈な個性なくして小泉内閣を理解することはおそらくできない。なぜなら、小泉さんの権力基盤は自民党の重鎮たちではないから。あるいは昨今めっきり耳にしなくなった族議員でも官僚でもない。それはひとえに民意であった。そしてその民意こそは、彼の「個性」が喚起させたものなのだから。

 

「実は、小泉の『強さ』の源泉は、個人の力か制度的システムかのどちらか一方だけには求めることはできない。そのような二者択一的な問題設定自体が不適当なのである。小泉固有の資源と、システムが提供する資源の両者をきわめて適切に組み合わせ、最大限の有効性を発揮したというのがその答えである。」(pp.21-22)

 

 当時小学生であったぼくもあの頃の熱狂を少なからず覚えている。もちろん落ちこぼれ小学生であったぼくは頭でそれを理解していたわけでなく、テレビ越しに見る国会の様子や小泉が好んで使ったワンフレーズ(「感動した!」「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」等々)が記憶の片隅にあったに過ぎない。多大な熱量を孕んだ大衆の熱狂が皮膚を介して伝わってくる、そんな感覚だけは今でも覚えている。

 こうした大衆の熱狂を喚起する、どこかエンターテイメントじみた小泉純一郎の政治手法は、「郵政民営化に反対する勢力、それらは全て抵抗勢力です」と言いきって臨んだ2005年の郵政解散に極まりをみせ、いつしかマスコミを以てして「小泉劇場」とよばれるに至る。

 

小泉首相は年来の持論であった郵政民営化を実現させた。その鍵となったのは、諮問会議を中心に議論を進めたこととともに、郵政解散を機に『抵抗勢力』を党内から駆逐し、総選挙で大勝を果たしたことである。そして、この大勝にはポピュリスト戦術が大いに寄与した。『強い首相』と『パトスの首相』の両者が組み合わさってかつてないほど効果的に働いたことが、小泉首相にその大願を成就させ、彼の政権を絶頂にまで押し上げたのである」(pp.103-104)

 

 今でもこの類のポピュリズム的政治手法に言及するとき、「○○劇場」とよぶことがある。最近だと、東京都知事小池百合子さんのやり口が同じように「小池劇場」とマスコミにより報じられたりしている。

 けれど、どうだろう。小池百合子小泉純一郎になれるのだろうか。あれほどの旋風を呼び起こしうるのか。ぼくは難しいのではないかと思う。

 そうした漠然とした思いにとらわれたのは、新党「希望の党」の立ち上げを宣言する記者会見で、質問に答える小池さんの発言を耳にしたとき。彼女は、都知事としての仕事である都政と、新党代表としての国政の仕事を両立できるのか、との記者の質問に対して、隙のない発言で適切に応じた(正直、この隙のなさは見習いたいレヴェルのものであると思う)。ぼくが気になったのは、発言の内容ではなく、発言が与える印象である。端的に云えば、小池さんの品の良さ。これが小泉と決定的に違う。例えば、このやりとり。

 

記者「(都議会の地方政党と、新党は)まったくプッツンと切れてしまうものなのか、それとも何人かいる国会議員の方たちと小池さんが一対一で、これから交渉なり調整をして連携をとっていくという可能性があるのかということ、を(お伺いしたいと思います)」

小池「これはですね、プッツンとするものではありません。さっきも申し上げているようにアウフ・ヘーベンするものでありまして、また内容は辞書で調べてください」(2017年9月25日「希望の党」立ち上げ記者会見:原文、()内補足、太字はブログ管理人)

 

 というくだりで、会見場の記者団たちからは、この気の利いた応答に笑い声も洩れた。ぼくもまさか哲学用語が政治家の口から飛び出すとは思わず、意表を突かれておもわず頬が緩んでしまった。けれどポピュリズムにとって重要なのは、この類の冗談で笑えない人たちの存在なのではなかろうか。

 小池さんはインテリである。英語も堪能だし、アラビア語もできる。けれど、インテリ、エリートであることはポピュリズム的手法とは馴染まない。

 

「『ポピュリズム』とは一般的には大衆迎合主義の意味で使われるが、もっと厳密に定義することが可能である。

 政治学者の大嶽秀夫によれば、ポピュリズムとは、『普通の人々』と『エリート』、『善玉』と『悪玉』、『味方』と『敵』の二元論を前提として、リーダーが『普通の人々』の側に立って彼らをリードし、『敵』に向かって戦いを挑む『ヒーロー』の役割を演じてみせる『劇場型』政治スタイルである」(p.7)

 

 別にぼくは小泉さんが教養に欠けていたとかいうつもりは毛頭ない。むしろ教養人を感じさせない強さがある。彼の語り口は―その功罪、具体的には「パトス(情念)の重視」と「ロゴス(理性)の軽視」という側面はおくとして―、常に分かりやすい。これは普通の人々の心を動かす上では、なくてはならない素質であろう。小泉さんはこれがうまかった。

 

「小泉の手法のもう一つの特徴は、その言語様式にある。『ワン・フレーズポリティクス』と呼ばれたように、一般の人々にわかりやすい単純なフレーズを用いて語りかけたことである。

 こうしたフレーズはテレポリティクスの時代には大きな有効性を持つ。テレビでは、仮にどんなに筋が通っていても、長くて理屈っぽい説明は見せ場に乏しく、使いづらい。それよりも、短時間にワンショットで見せる場面のほうが制作側も使いやすく、視聴者にも受け入れられやすい。小泉は、テレビメディアの特性にうまく適合したメッセージ発信を行うことに、天才的な能力を発揮した」(p.9)

 

 ぼくはかねてより、インテリはポピュリズム的手法に向かないと思っていた。普通の人々はインテリや教養人をうさん臭いものだと思っているのだから。心情移入や共感のできないものを支持しない、というのは人間の情である。

 教養の高さは簡単に覆い隠せるようなものではない。これは本人の意識とは別のところで、言葉や行動の端々から自然と醸し出されるもの。良くも悪くも相手に言外の印象というもの与えてしまう。そういうインテリや教養人・知識人が無理して「普通の人々」に歩み寄ろうとして慣れないことをすると、たいていが失敗する。だいたいが滑稽な振る舞いになるか、普通の人々の尊敬を得るどころか、逆に、見下している、馬鹿にしている、と誤解を招いて手痛い失敗に終わるものだ。

 ヒラリー・クリントンはどう頑張ってもドナルド・トランプになれないように(いや、別になりたいとは思ってないでしょうが―)、小池百合子小泉純一郎になるのは難しいのではないかと思う(これも思ってはないでしょうが―。けれど小池さんは小泉さんの「抵抗勢力」を彷彿させる「改革勢力」という言葉を結構多用している)。もちろん、ヒラリーさんにも小池さんにも、各々の良さがある。そこを評してくれる国民もいるので、無理して粗野に振る舞う必要が全くないのは言うに及ばず、である。そもそも国民が政治に求めるのはキャラクターではなく、「なにができるか」「どう生活を良くしてくれるのか」という政策なのだから。だからヒラリーさんも庶民派をアピールするために食べ慣れないハンバーガーを無理して頬張ってみせる必要はなかったのだ。ぼくはそう思う。

 

 さて、政治の世界は複雑怪奇を常としている。予想は立てども、予言などあり得ない。ぼくたち有権者の一人一人が冷静に考え、選択し、生活をよくするという意識が肝要だ。近いうちに選挙がある。キャラクター投票ではなく、政策をみて判断していかなくてはいけないな、という思いを、本書を読んでいっそう強く抱くに至った。