青年モラトリアムの読書譚

人生のモラトリアム真っ只中の青年が、読んだり、考えたりするブログです。

読書感想|稲葉陽二『企業不祥事はなぜ起きるのか』中公新書

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

東芝の不正会計や三菱自工リコール隠しなど、企業の存続をゆるがす不祥事が続発している。なぜこのような問題が起きるのか。東証一部上場の百社以上を分析し、「不祥事を起こしやすい会社」をモデル化した著者は、トップの暴走とそれを止められない社内風土=企業内のソーシャル・キャピタルに原因があるとする。「強いリーダーシップ」や「各部門のサイロ化」が危ないなど、意外な知見も。あなたの会社は大丈夫か?

 

 企業不祥事のニュースには事欠かない。大なり小なり日々何かしらの企業不祥事が起こっているのではないかと錯覚する。東芝粉飾決算フォルクスワーゲン三菱自動車の性能データ改竄、電通の過労死自殺、など最近だけでもいろいろと思い当たる。そんな状況を目にする度に、嗚呼、まともな企業はどこにあるのか。もしや、まともな企業など存在しないのだろうか。と嘆かずにはいられない。

 この沈痛な叫びの背景にあるのは、企業不祥事はなぜ起きるのか、という問いである。企業不祥事がない会社は少なくとも「まとも」な会社であるのだから。それでは、不祥事を起こさないためにはどのような企業像が望ましいのか。そんな純粋無垢な疑問に対して、本書はソーシャル・キャピタルという視点から一定の回答をあたえる。―即ち、強すぎる絆は会社をこわす、ということ。ぼくは本書の主張をそう理解した。

 ソーシャル・キャピタルとは何か。本書においては、以下のように定義されている。

 

「本書では、社会関係資本の定義を『外部性(当事者だけではなく周囲の第三者にも影響を及ぼすこと)を伴う会社内外のネットワークとその結果として生まれる社内規範と相互信頼』としている」(p.69)

 

 ぶっちゃけ、これだけではよく分からない。しかしそもそも社会関係資本なる概念が多くの概念を包括的に捉えたものなので、致し方ない面もあると思う。これは著者も認めているとおり。なので、ぼくはさしあたり、社会関係資本ソーシャル・キャピタル=人的な絆、と、ざっくり捉えてもよいと思う。

 ところで、このソーシャル・キャピタル。ぼくは今までこの言葉はポジティブな意味合いを持つものだと理解していたのだけれど、どうも必ずしもポジティブなだけではないらしい。

 

「エリック・アスレイナーらの内輪の人々のネットワークである結束型社会関係資本のダークサイド論とは、内輪のグループの結束が強いとグループ外への信用や寛容性が損なわれ、腐敗行為に走りやすくなるという理論である。この議論に付随するものとして、ロバート・パットナムら複数の論者がグループ外の結束が高いということは、そのグループに属さないものを疎外していることにほかならないという論点がある」(p.76)

 

 よっしゃ、みんな引き締まっていこう。うぇーい。という感じの結束型社会関係資本は、その、うぇーい、という輪の中の者の間では結束や規範を強化する一方で、うぇーい、という輪の外の者に対する意思疎通を忌避ないし排除する方向に働くことも多い(尚、前者を「正の外部性」、後者を「負の外部性」と呼ぶ。もとは経済学用語である)。―どうだろう。思い当たる節はないだろうか。

 ぼくは内輪の結束自体は別に悪いことではないと思う。実際、そうした関係性で安心感や充足感を得てきたと思うこともある。でもそれは、極めてプライベートな領域での、お友達関係の話にとどまるべきであろう。パブリックな領域で、この結束型社会関係資本のダークサイドに無頓着であることは危険だと思う。このダークサイドが企業不祥事の遠因の一つである可能性を著者は指摘する。ぼくはこの指摘と論証に十分納得させられた。

 その点について、面白いな、とおもったのが、このアンケート調査。―さて、みなさん。とくに会社員のみなさん。幾つ当てはまりますか。

 

「(前略)彼らの質問票は十二項目(①口は出すが責任はとらない、②機能別の利害に固執、③一人でもごねると大変、④戦略審美眼に優れたミドルが多い、⑤自分の痛みと感じない人が多い、⑥わが社のトップは優秀、⑦内向きの合意形成、⑧メンツを重視しているだけ、⑨わが社のトップ層は政治的、⑩決断が不足している、⑪激しい議論は子供だと思われる、⑫対立回避するヤツが出世する)からなるが、その中身は基本的に社会関係資本の負の外部性そのものである。なお、上記の④と⑥は肯定的な回答が少ないほど組織劣化が進んでいるという項目である。

 たとえば、機能別の利害に固執、一人でもごねると大変、自分の痛みと感じないヤツが多い、内向きの合意形成、メンツを重視しているだけ、対立回避するヤツが出世する、などはいずれも、内輪の仲間同士の強い結束型社会関係資本の負の外部性にほかならない。内輪の仲間同士の強い結束型社会関係資本が形成されていると、仲間同士の信頼は厚くなるが、グループ外の人々や組織に対しては無関心や無頓着になる。グループ内の『機能別の利害に固執』し『内向きの合意形成』に走る。組織の内部では、組織間の結束を強化する能力が重視され『対立回避するヤツが出世する』が、その特定のグループ外にいる人々からみればそのグループのメンバーは『自分の痛みと感じない人が多い』『メンツを重視しているだけ』であり、『一人でもごねると大変』ということになる」(pp.184-185)*前略はブログ管理人。

 

 どうだろう。ちょっとドキッとするのではないか。ドキッとした人の組織は企業不祥事の発生要素をかかえていると言える。ドキッとしなかった人の組織は、健全優良企業であるか、あるいは逆に、既に末期であるか。末期症状の自覚があるから、いまさらドキッとはしない、ということなのだろうか。

 

 それにしても日本の企業はちょっと変だ、と思う。

 変だ、変だ、とは思ってはいたが、この思いは今でも拭いきれない。どういうところが変かというと、例えば、幾人かの知人諸氏。彼らは、たとえ如何なる理不尽に直面しても、「それが社会だよ」と半ば思考停止的に達観してみせる。「理不尽に耐えることが社会人になること」などと禁欲主義者顔負けの忍耐強さを発揮する。彼らはなぜそこまで思考を停止させられるのだろうか。

 ぼくは彼らを観ていてちょっと怖くなる。彼らの姿がアドルフ・アイヒマンと重なるからだろうか。悪は必ずしも巨悪ではない。往々にして凡庸なのだ。

 

 

 

  もちろん忍耐も大切。けれどそれら行動の根底にあるのは、とどのつまり、自身の行動の結果責任を巧妙に回避ないし正当化する「事なかれ主義」ではないか。それは本来的には企業の中長期的利益にとってはプラスになるものではないとの認識が、本書を通じて、一定程度確信に変わった。

 理不尽に対して理不尽だ、と抗う余地のない組織が正常であるなどと彼らだって本気では思っていまい。彼らの事なかれ主義はいわば自己暗示である。上司の顔色を窺わなくてはならぬ。同僚の中で悪目立ちしたくない。いじめられたくない。せっかく手に入れた大企業のステータスを手放したくない。これらはひとえに自己の保身―もっと突き詰めるならば、「自己保存欲求」からきているとぼくは理解している。そういう意味では至極理解できる気持ちである。

 けれど、そういう強い絆、いや、ある意味では内輪の中だけを意識して「忌憚のない議論の応酬」の可能性が完全に摘み取られているという意味では、むしろ「弱い絆」とも言えるかもしれないが―、この類の「絆」なるもの(その負の外部性)によって雁字搦めになっている企業は不祥事を引き起こす余地がある、ということだ。

 そして企業不祥事は、社長の謝罪で片のつく問題ではない。とんでもない事件を引き起こすこともある。

 

「二〇〇四年三月にはまたしても三菱自工から二〇〇三年に分離したトラック・バス部門である三菱ふそうトラック・バスリコール隠しが発覚した。三菱製の大型車で絶対に壊れてはいけない部品であるハブの破損によりタイヤが外れるというもので、二〇〇二年一月には横浜で外れたタイヤが通りすがりの母子三人を死傷させる痛ましい事故まで発生させていた。(中略)三菱ふそうは整備不良と主張する一方で、社内では設計ミスによるものと認識し約十二万四〇〇〇台のヤミ改修を実施していた。また、欠陥を抱えたバスとトラックは一九九〇年代から三菱自工によって製造されていたにもかかわらず、三菱ふそう(二〇〇三年からダイムラー・クライスラーの傘下に入った企業)は、三菱自工とは無関係とする無責任な立場をとっていた」(p.123)

 

 きっと事なかれ主義者にとって、この「内輪」の外の死傷者のことはどうでもよいのだろう。ああ、人が死んだんですね。そうですか。それは悲しいことですね。慰謝料は会社が払いますからね。残念でしたね、と。所詮はこの程度なのだろう。大切なのは、内輪の評価と出世と金儲け。いやはや大した絆の強さではないか。

 もしかすると、この設計ミス隠しに疑義を差しはさんだ人もいたかもしれない。ぼくはきっといたと信じている。けれど、きっとその人は「一人でもごねると大変」だからと激しく叱責され、そのあとで別の上司なり同僚なりに猫なで声で「理不尽に耐えることが社会人になることだよ」と諭され、「そうか。まあいいか。社会はそういうもんだよね」と諦観するに至ったのだろう、と、ぼくは状況を推しはかる。

 自称「社会人」である大人の方々は、こういう事態をどう考えるのだろうか。彼らの事なかれ主義に不祥事の温床を、危うさを感じるのはぼくが社会人として未熟だからなのだろうか―。

 絆という言葉を悪用するのではなく、もっと真剣に考え直すべきだと思う。