青年モラトリアムの読書譚

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読書感想|林良祐『世界一のトイレ』朝日新書

 

世界一のトイレ ウォシュレット開発物語 (朝日新書)

世界一のトイレ ウォシュレット開発物語 (朝日新書)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

おしり洗いから、脱臭、ふたのオート開閉などのハイテク機能の数々は、「かゆいところに手が届く」「至れり尽くせり」「心配り」といった日本人ならではの繊細な感性と、徹底したものづくりの姿勢から誕生した。ガラパゴス的に開発されながら、なぜ世界で受け入れられていったのか。

 

 ぼくは純文系の人間だ。法学とか哲学とか歴史ばっかりやっていた。けれど、いや、だからというべきか、ぼくは理系の人たちに憧れを持っている。ほんとうに尊敬している。羨んですらいる。

 彼らの何が羨ましいかというと、何かを創造できるということが羨ましいのだ。一縷のひらめきを、技術を以てして具現化する。ハンナ・アレントが、ジョン・ロック流の、どこか牧歌的な「労働」とは区別される、「仕事」と呼んだもの。この知的営為のあり方が羨ましいのだ。

 

「労働し、『混ぜ合わせる』〈労働する動物〉とは違って〈工作人〉は、物を作り、文字通り『仕事をする』。いいかえると、わが肉体の労働と違って、わが手の仕事は、無限といっていいほど多種多様なものを製作する。このような物の総計全体が人間の工作物を成すのである。これらの物は、すべてがそうであるのではないにしても、ほとんどが、使用の対象であり、ロックによれば、財産となるのに必要な耐久性と、アダム・スミスによれば、交換市場に入るのに必要な価値を持っている。その上、これらの物は、マルクスが人間本性の印だと信じた生産力を証明する。それは、適切に使用されれば消滅することはない。実際、これらの工作物には安定と固さが与えられている。この安定と固さがなければ、人間の工作物は、不安定で死すべき被造物である人間に、住処を与える拠り所とはならないだろう」ハンナ・アレント(志水速雄訳)『人間の条件』ちくま学芸文庫(p.223)

 

 彼らのつくったものは文化としてこの世界に刻印される。この世界を変革する。彼らの死後さえも滞留しつづける。この世界の中で、脆弱であることを宿命づけられたぼくたち人間の「住処を与える拠り所」となる。

 そうした有史以来、人間が脈々と続けてきたリレーを走るという崇高さと偉大さ。それを会社とか研究所とかで、お給料をもらいながら仕事としてやっていけるという、その職人としての一貫した生き方が羨ましいのだ。

 

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

 やや前置きが長くなってしまった。今日は世界一のトイレの話。副題はウォシュレット開発物語。なかなかキャッチーなタイトルだ。

 本書は、日本を代表する衛生陶器メーカー・TOTO、そうあのトイレのTOTOの一開発技術者が「ウォシュレット」や「音姫」などを開発するに至った経緯を赤裸々に語る「開発秘話」なのだが、これがどうしてなかなかにおもしろい。

 なにがおもしろいかというと、技術者の人たちはものを造るという中で、消費者が想像もしえないような試行錯誤をしているのだな、ということ。この、純文系人間にはなかなか見えない世界を垣間見るのがおもしろい。例えば、これとかそうである。

 

「TOTOが行ったウォシュレットを使用している人へのアンケートで、ウォシュレットを選んだ理由の1つに洗浄機能が挙げられる。おしり洗浄は『アンダーウェーブ洗浄』以降もいろいろな洗浄機の改善を行っている。しかし、ビデ洗浄は、おしり洗浄と比べると自信を持って満足いただけるとは言い難く、ビデ洗浄の改善に取り組む必要があった。

 女性のデリケートゾーンに対する悩みとして、『生理中だからこそ清潔さを保ちたい』『デリケートなエリアだからやさしくケアしたい』という声が上がっていた。その日の体調や状況、あるいは気分で使い分けができるよう、従来のビデ洗浄に加え、広範囲をやさしく洗うことのできる『ワイドビデ洗浄』を開発した。

 ここでもまた、女性開発者の“名言”が飛び出したのだが、そのうちのひとつが、『おしり洗浄の水で目を洗えますか?』。おしり洗浄は汚れを洗い落とす行為だが、ビデは粘膜を洗うので、もっとやさしく洗わなくてはいけないということを表現した言葉だ。この名言のおかげで、男性開発者は、『目におしり洗浄は痛いだろう』と具体的にイメージすることができた。また直径40ミリの範囲を均一に洗うことを目指したが、男性開発者にはわかりにくいので、手をかざしてちょうど手のひらが一斉に洗える感覚で確認した。これは社内で『手ビデ』という言葉として頻繁に使用され、流行語になった。

 (中略)洗いたいところをスポット的に洗う『ビデ洗浄』と、デリケートゾーンをさっと広範囲に洗う『ワイドビデ洗浄』。20代から60代の、92%の女性モニターからは、使い分けの快適さと便利さを支持する声が届いている」(pp.160-161)*中略はブログ管理人。

 

 どうだろう。ここまで考えているのか、とちょっと驚く。ぼくは池井戸潤下町ロケットの世界を思いだしていた。あれもロケット部品の技術開発に情熱をかける人たちの話だった。 

 

下町ロケット (小学館文庫)

下町ロケット (小学館文庫)

 

 

 ぼくはやっぱり理系の人の生き方をすごく羨ましく思う。彼らのよいところは、かつてやってた事と、今やっている事との一致に尽きる。その連続性を羨ましく思う。学生時代にやってきた技術的な研究―、それに基づく「よいものを造りたい」という職人として当然有すべき個人的な思いと、「よいものをお客さんに提供したい」という企業人としての要請が一致している。なので、この人たちの言葉には嘘くささがないのだ。

 「おしり洗浄の水で目を洗えますか」、あるいは、本書の中で飛び出すもう一つの名言「ノズルを舐められますか」というような視点―、

 

「2011年9月現在、TOTOのトイレにおける最新技術は、ウォシュレットにおける『電解除菌ノズル洗浄』と、『ワイドビデ洗浄』である。

 『ノズルが清潔だと言い張るのなら、舐められますか?私たち女性は、舐めることができるくらいきれいじゃないと、清潔だと言わないんです』

 ウォシュレットの女性開発担当者から、このように言われたことが、今回の『電解除菌水ノズル洗浄』を搭載するきっかけになった。『清潔』の指標は、ペットボトルの飲み口よりもきれいであること、である」(p.156)

 

 こういう言葉のどこにも嘘はない。そこにあるのは技術者として「こだわり」である。技術革新への愚直さである。良いものを造るぞ、もっと世の中便利にするぞ、買ってくれた人を満足させるぞ、という開発者としての妥協を許さぬ意気込みなのだ。そして技術の革新は文化の創出でもある。

 例えば、本書の中では「音姫」開発の話は、技術と文化の交錯をみごとに示している。

 

「女性なら誰でも知っているが、男性でその存在を知る人は少ない―。トイレ用擬音装置音姫』のことである。音を発生させて、排尿や排便の排泄音を消す、TOTOが1988年5月に発売した商品だ。

 他人にトイレの音を聞かれると恥ずかしい。そのため、多くの女性が公衆トイレで、用を足す間にも水を流すという、いわゆる『二度流し』を行っていた。ちなみに、この習慣は日本女性特有のもので、海外では見られない現象だという。

 (中略)TOTOのデータによれば、トイレ用擬音装置がない場合、女性が水を流す回数は平均2・3回で、余分に消費している水の量は約17リットルにものぼる。『二度流し』というより、出しっぱなしにしたり、2回以上流す人もいるのだ。明らかに水資源の無駄遣いであり、公衆トイレを設置している側にとっては、水道料金やトイレの維持コストにも響いてしまう」(p.119)

 

 ああ、知れば知る程おもしろそうな仕事ではないか。技術家とは文化の担い手でもあったのか。技術者の世界も良いことばかりではないのだろうが、他人の芝生は青く見えるもので、いろいろと羨望を惹起させられる。下町ロケット然り、本書然り。

 本書はTOTOの一技術開発者が、技術者としての半生を顧みるものであった。技術者の半生の記述とは即ち、社会の技術革新の足跡をたどる技術史的な史料価値を有することに疑いの余地はないと思われるが、決してそれだけにとどまるものではない。新しい技術が市井の人々の生活様式をも変えるのだとすれば、それは生活史ないし市民の風俗史という側面も有するし、また文化史でもある。あるいは一開発技術者の人間ドラマとしても読むことができる。そういう意味ではいろいろな読み方のできる一冊と言えるのではないか。

 そうそう。福岡県小倉市TOTOミュージアムというのがある。こちらはトイレの技術史、生活史ないし風俗史を知ることができておもしろい。ぼくも数日前に訪れたが、なかなか見ごたえのある展示だった。ぼくのような技術方面の話題に疎い純文系人間でも楽しめるような工夫が随所になされている。興味のある方は足を運ばれてはいかがだろうか。