青年モラトリアムの読書譚

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読書感想|キケロ(中務哲郎訳)『老年について』岩波文庫

 

老年について (岩波文庫)

老年について (岩波文庫)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

古代ローマの政治家・文人大カトーが文武に秀でた二人の若者を自宅に招き自らの到達した境地から老いと死と生について語る、という形をとった対話篇。古代ローマの哲学者・政治家キケロー(前一〇六‐前四三)が人生を語り、老年を謳い上げる。新訳。

 

 久しぶりの岩波文庫。久しぶりのキケロである。学部生の時分に『友情について』(岩波文庫)を読んで以来、キケロはすっかりご無沙汰であった。これで二冊目である。

 

友情について (岩波文庫)

友情について (岩波文庫)

 

 

 タイトルは老年について。ぼくは二十代である。まだ若いと思っている。されど気づけば二十代。しかも中盤。ちょっと愕然としている。いくら人生は長いとはいえ、こうも早い時の経過を目の当たりにしては、ちょっとばかり「老い」というか、齢(よわい)を重ねることについて考えさせられる。備えあれば患いなし。「老いる」ことをネガティブではなく、ポジティブに肯定してみたいではないか。そういう経緯で、ここらで少し「老いる」という事柄についても考えてみたくなった次第である。

 しかしどうも「老いる」ということは、ぼくのみならず、古来より若者の関心事でもあるようで、本書の語り部である齢80歳の古代ローマの政治家・大カトーを訪れるのは、ラエリウスとスキピオという二人の若者である。尚、ラエリウスは『友情について』でも登場するキケロのお気に入りの青年である。

 

ラエリウス カトー様、スキーピオに代わって申しますが、私たちも老人になっていくでしょうし、それを望んでもいるのですから、いかなる方策をもってすれば老いの道行きを最も安く耐えることができるか、それをあなたの口からずっと早くにお教えいただければ、これに勝る喜びはないでしょう」(p.14)*原文ママ

 

 ラエリウス、スキピオ両名とおなじく、ぼくもまた老いるということを必ずしもネガティブなこととは思っていない。けれど世間一般の通念に照らせば、老いとは忌避されるものである。

 

「さて、わしの理解するところ、老年が惨めなものと思われる理由は四つ見出される。第一に、老年は公の活動から遠ざけるから。第二に、老年は肉体を弱くするから。第三に、老年はほとんどすべての快楽を奪い去るから。第四に、老年は死から遠く離れていないから。もしよければ、これらの理由の一つ一つがどの程度、またどのような意味で正当かを、検討してみようではないか」(p.22)

 

 そういう中にあって、キケロは第一から第四の通念を批判的に検討する。その是非は実際に読んで判断してもらうしかないが、いずれの検討も説得力に富み刺戟的なものであるとぼくは思う。

 それにしても、これらキケロの言葉は老いを肯定し得るものとして、さぞ力強いものであったろう。その勢いたるや若者の青春の輝きすらも呑み込まんとする気概である。

 

「いや、青年の望むあらゆること老人はすでに達成しているのだから、それだけ老人の方が良い状況にある。あちらは長くいきたいと欲するが、こちらは既に長く生きたのである」(p.65)

 

 直感的ないし情緒的な常識を批判的に検討することで、より理性的な結論を導出する。それでこそ哲学者。それでこそ知識人の仕事ではあるまいか。こういうことが老齢であってもできるというのが、キケロの大哲学者たるゆえんである。

 さて、ぼくは老いを必ずしもネガティブなものと考えないといった。そう言いきれるのは、ぼくのまわりには素敵な老い方をしている人たちが少なくないからだ。それは学生時代の恩師であり、留学先でお世話になった駐在員の方々、である。ぼくにとって彼らは血気盛んなぼくを励ましてくれる、心強い存在なのだ。

 ぼくに限らず、若者はどうしたって血気盛んなのである。だから勢い余って時々失礼なことをする。けれどそれが何だっていうんだろうか。これこそが若者の輝きだろうに―。若者が萎縮して大いに語らなくなったらそれは世界の希望が潰えるときである。キケロはそこんとこをちゃんと分かっている。

 

「無謀は若い盛りの、深謀は老いゆく世代の、持ち前というわけだ」(p.26)

 

 さて、若者は人生をより豊かに過ごしたいと思っている。もっと世界の中で非凡な自身でありたいと願っている。世界に関与したいと大望を抱いている。けれど一方で、自身の至らなさを心のうちでは知っており、それを埋めたいとも思っている。古今東西若者とはそういうものである。そんな若者にとって、自身の成長を促してくれる思慮深い年長者は仰ぎ見るべき師なのである。尊敬できる師なのである。孔子の周りにも、ソクラテスの周りにも、やはり若者の姿は絶えなかったろう。古今東西おなじなのである。善き年長者であるキケロはそのことを見抜いていた。慧眼である。そのうえで、善き老人のあり方について、大カトーに以下のように語らせる。

 

「賢者は老人になっても稟性豊か青年に楽しみを見出すし、若者から敬い愛される人たちの老年は軽くなるものだが、同じように、青年たちも徳への専心へと導いてくれる老人の教訓を喜ぶのだ。わしがお前たちを喜ぶのに劣らず、わしもお前たちに喜ばれている、とも理解してるぞ」(p.31)

 

 一方で、どうしょうもない年長者というのは、たいてい若者に嫌われ疎んじられる。これは仕方のない事である。

 キケロの言葉の中には、どうしようもない年長者に聞かせてやりたいと思うものがたくさんある。若い女の子にちょっかいを出す全てのゲスどもに、あるいは若者へ無条件の服従を強いたがるサディスティックなゲスどもに聞かせてやりたいと思う。奴らは老いと向き合えていないのだ。ぼくは、漫然と老いてきた連中は尊敬には値しないと思っている。それが摂理というものであろう。この摂理に反してまで、尊敬を是が非でも得たいがために社会的肩書にすがる連中のなんと見苦しいことか。肩書なくして得られぬ尊敬は、しょせんは偽物ではあるまいか―。

 

「わしがこの談話全体をとおして褒めているのは、青年期の基礎の上に打ち建てられた老年だということだ。そこからまた、これは以前にも述べて大いに皆の賛同を得たことだが、言葉で自己弁護をしなければならぬ老年は惨めだ、ということになる。白髪も皺もにわかに権威に掴みかかることはできぬ。まっとうに生きた前半生は、最後に至って権威という果実を摘むのだ」(pp60-61)

 

 年長者との差は、しょせん生まれたのが数年早かったか遅かったかという些細な差に過ぎぬ、というのがぼくの持論だ。ぼくは心底そう思っている。従って、相手が自身より年長者であるか否かは、ぼくにとっては心からの敬意を示す絶対条件ではあり得ない。尊敬とは、自然と相手の内に喚起させるものなのだ。無理やり強いるものではあり得ない。

 全ての年長者が思慮深いとは限らない。品行方正であるとも限らないだろう。むしろ人生を成り行きで生きており、ただ消費のための消費、快楽のための快楽に耽ってきた連中だっているのだから。テレビ観てゲラゲラ笑っているだけの連中をぼくは「大人」とは認めない。絶対に―。「子供」だってそんな連中のお説教に説得力は見出さない。当たり前ではないか。この当たり前の摂理を、「年齢」の故を以て不当にも捻じ曲げようとする自称「大人」の方々には是非とも本書をご一読されるよう薦めたい。齢を重ねるということが如何に大変なことか、お分かりいただけるであろう。

 本書を通して、ぼくは一つの教訓を得る。善き生き方なくして、善き老後なし。これに尽きる。他人に威張ってばかりではなく、自身の生き方の清貧の内に尊敬に値する生を見出せ、ということなのであろう。

 そうそう。本書は古典である。古典の常として、本書でもなかなかおもしろい歴史上のエピソードがたくさん紹介されている。例えば、これとかおもしろい。

 

「僭主ペイシストラトスに対するソローンの返答がそのあたりの消息を伝えている。即ち『一体何を頼んでそんなに大胆に逆らうのか』と問われて、ソローンは『老年を』と答えたというのだ」(p.67)

 

 ソローンとは、改革者ソロンのことである。歴史に明るい人ならばピンときたのではないか。ソロンの如く善き老年を生きる者は、無敵である。僭主さえも恐れぬのである。

 さて。そういうわけで、久しぶりの岩波文庫でしたが、存分に楽しめました。お薦めです。