青年モラトリアムの読書譚

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読書感想|天児慧『中華人民共和国史』岩波新書

 

中華人民共和国史 新版 (岩波新書)

中華人民共和国史 新版 (岩波新書)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

二一世紀に入り、世界の眼は俄然、中国に向けられるようになった。飛翔を始めた巨大な龍。一九四九年の建国以来、この国はどんな歩みをたどってきたのか。今日に至る数多くの事件・事実をたどり、他に類を見ない、そのダイナミックな歴史の流れを描く。定評ある通史をアップデートした新版。

 遅ればせながらの卒読。本書は中国近現代史を考えるうえでの必読書にして最良の入門書である。これまで「積読(ツンドク)」状態であったのをようやく片した。

 曲がりなりにも中国で二年間の研究活動に従事していた者としては、いまさらという感もあるが、それでも多くの発見があり、多くの学ぶべきことがあった。中国留学を考えている人、既に留学した人、駐在員の人、何らかの形で中国と接する人は、本書を起点に中国に対する基本的な認識を形成するとよいと思う。思わぬ形で役に立つはずである。損得を抜きにしても、中国で生活するのに中国の近現代史を知らないというのは何とも情けないではないか。

 本書を薦めるのは、そのバランスの良さにある。巷に溢れる多くの中国論が、極端に自虐的な中国称賛か、あるいは極端にナルシスティックな中国批判に二分する中で、本書は極めて冷静に中国史の動静を論じており好感がもてる。著者のバランスのとれた分析は以下のような認識の故なのだろう。

 

「2000年以降、日本と中国をとりまく環境は大きく変わった。もちろんそこには、国力の大きな変化、日中関係自体の悪化などあるが、もっとも大きな変化は、お互いの相手を見る眼、考える観点の変化である。とくに今の日本人は、中国を感情的に見てしまう傾向が一段と強まっている。しかし、それで良いのか。それで日本と中国は未来を切り開くことができるのか。『相手を好きになる』ことが関係改善の前提だとは思わない。その前に、『決めつけ』『思い入れ』に先走らずに、客観的に中国理解を深める努力を続けることが大切であろう。

 中国は『引っ越しのできない隣人』とよく言われるが、私はその表現は不十分だと思う。むしろ『離れたくても離れられない複雑に絡み合った隣人』といった方が適切であろう。それだけに、甘いも辛いも酸いもすべてない交ぜの隣人・中国とはしっかり向き合うしかない。個人的に言えば、肩の力を少し抜いて、こうした隣人と向き合うと結構おもしろい発見に出合う。その感性をいつまでも大切にしたいと思う」(pp.231-232)

 

 「肩の力を抜いて」接しなくてはならない。誰も彼もが力み過ぎているのである。著者の天児氏は中国政治を専攻する国際政治学者。学者には事態を冷静に把握する分析力こそ求められるが、冷静さは力んでいる限りはでてこない。プロの学者はこのことをよく分かっている。「肩の力を抜く」ことについては、ぼくも思い当たる節がある。多くの平均的な日本人の御多分に洩れず、ぼくも力んでいたのであろう。天児氏が云う「結構面白い発見」に出遭ったのは、ぼくの場合は中国の地を踏んで半年ぐらい経過して、やはり肩の力を抜いてからであった。

 けれど、肩の力を抜きすぎて、思考停止してもいけない。最近読んだ話だと、例えば中国の政治と経済の両面に明るい矢吹先生も同じようなことを仰っていたのを思いだす。

 

「日本では中国のせいにするとだいたい通ってしまうということ、そこが問題です。これがアメリカとのトラブルだったら『アメリカが悪い』と言ってもみんな納得しないのに、中国の場合は『中国はどうせいいかげんな国だから』と中国のせいにするとそれで話が終わってしまうというところに大きな問題があります」矢吹晋『中国から日本が見える』ウェイツ(p.96)

 

 矢吹氏の指摘はなるほどな、と思わせる。「中国はいいかげん」と言って思考停止するのを避けて「何がどういいかげんなのか」を論じるだけの基本的な知識はもっておけ、ということなのだろう。ぼくはそう理解した。

 

中国から日本が見える (That’s Japan)

中国から日本が見える (That’s Japan)

 

 

 自身の経験を過剰に一般化するつもりはないが、それにしても日本の多くの人の中国史に対する認識は驚くほど過少であると思う。西洋史のあれこれをよく知っているのとは雲泥の差である。

 天児氏が云うように、まずは「力まず」中国の歩んできた歴史を知る必要がある。文化大革命について説明できるか。中ソ対立について説明できるか。鄧小平の改革開放について説明できるか―、等々も含んでの近現代史なのである。歴史の話は何も南京大虐殺天安門事件にのみ限定されるわけではない。近現代史はそこにのみ尽きるわけではないのである。

 まずは知らねば生産的な批判はできない。少なくとも知る努力はするべきであろう。中国の歴史と言えば三国志を思い浮かべる人も多いと思うが、やはり近現代史が大切だと思う。本書を通して改めてその重要性を痛感した。 

 それから、本書の特徴としてぼくが面白いと思ったのが、本書が中国近現代史を俯瞰する要点の一つとして指摘する「国際的インパクト」の話。本書を読み進めるうえで一貫して国際社会の動静が大きな存在感を以て描かれる。

 

「中国近現代史全体を俯瞰し、歴史のダイナミックスを創り出す基本的なファクターを抽出してみるなら、以下の五つが浮かび上がってくる。すなわち、①革命のファクター、ここでいう革命とは破壊的、暴力的な手段によって現体制やそれを担う主体、経済的社会的思想的基盤を破壊しようとする行為を指す。②近代化のファクター、無論、ここでは経済的近代化のみならず、政治的な国民国家建設や西欧近代思想の受容なども含んでいる。そして両者に覆いかぶさるように関わる、③ナショナリズムのファクターがある。さらに、これらを突き動かす、④国際的インパクトのファクターがあり、そして一般的には革命や近代化の対象となりながらも、しばしば革命や近代化そのものに作用し、それらを『中国的なもの』にする⑤伝統のファクターがある」(pp.v-vi)*太字はブログ管理人。

 

 別に改めて言うまでもないが、国内政治と国際政治は連動している。これは国内経済と国際経済が連動しているのと同じである。国際政治学では「共振」と言われたりする概念である。鄧小平が外圧を利用して国内経済の跳躍を狙ったとか、国有企業改革や生産性の向上を図るためのWTO加盟を「共振」とかいうだけならば、別に今更言うまでもない。

 そこは、さすが天児氏は学者である。客観的で犀利な分析で、毛沢東から習近平に至るまでの幅の広い「共振」を描き切っている。新書という紙面の制約なのだろうか、胡錦濤政権以降の記述は相対的に少ないのが残念ではあるが―。

 もちろん個人の客観性には限界がある。人によっては本書が岩波の書籍である一事を以てして髪の毛を逆立てるかもしれない。別に逆立ててもよいと思う。どのような事柄であれ批判の余地は十分に認められるべきである。それが民主主義国家の原則である。ぼくら日本人は自由に何事をも批判できるということをもっと誇ってもよいと思う。全ての国で批判することが自由ではないのだから。

 残念ながら、本書も示す通り、中国の近現代史はそういう自由な批判を抑圧する方向で展開している。本書で紹介されているものだけでも事例には事欠かない。例えば、第二次天安門事件の話はやっぱりひどい。

 

「徐々に一般学生たちは広場から離れはじめ、民主化要求を死守しようとする強い意志を持った人々を残すのみとなっていった。かくして六月三日未明より四日にかけて、『運動は反革命暴乱に変わった』との理由で戒厳部隊が北京中心部に向けて出動を開始し、天安門広場に至る幾つかの主要道路上で抵抗する学生・市民に発砲し、蹴散らしていったのである。その死者は一説で二〇〇〇名前後との報道もあり、その後の当局の発表でさえ軍側も合わせ死者三一九名、負傷者九〇〇〇名に達するほどであった」(pp.152-153)

 

 中国で人権というと「08憲章」の劉小波氏は記憶に新しい。本書でも彼について若干の記述がある。彼の他にも多くの人権活動家がおり、民主化運動が存在し、且つ今も存在していることは知っておいて損はあるまい。

 「中国は○○だ」と短絡することは厳に慎むべきである、というのが本書の総括として云い得るであろう。

 そもそも一国の評価を「○○である」と一言で(in a nutshell)言い尽くすことは不可能である。けれどどういうわけか、こと中国に関してはそういう短絡をしてしまいがちである。思慮分別を欠いている不毛な中国論には何の意味もない。心底思う。けれど知らず知らずのうちに根拠薄弱な短絡をしてしまう恐れがある。自己の経験を過大視する惧れがある。だからこそ虚心坦懐に近現代史を学ばなければならない。歴史は現在に至る歩みであり、現在は歴史の上にあるのだから。改めてそう思う。