青年モラトリアムの読書譚

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読書感想|ショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について 他二篇』岩波文庫

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 光文社古典新訳文庫でも読めます。参考までに。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」―一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788‐1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。

 

 

「『反復は研究の母なり。』重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりをよりよく理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象を受けるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである」(p.138)

 

 本書を読むのは二度目である。書斎で傍らにあったので何気なく手に取ってみると、気づけば通読してしまった。その途中で、思いがけず上の一文を発見したものだから、思わず頬が緩んでしまった。

 さて、今月に入ってから二冊目の岩波である。

 

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない」(pp.127-128)

 

 という、けっこう辛辣な言葉を差し向ける本書の著者たるショウペンハウエル自身は大層な読書家であった。結構有名な話である。言葉の端々から、俺はお前らと違ってちゃんと考えて読んでるぞ、という大哲学者の自負が垣間見える。

 さて本書はそんな読書家のショウペンハウエルが「読書の危険性」を告発するというもの。毒舌の読書家が読書の毒性を説くというのは、なかなかトリッキーである。毒を以て毒を制すというわけか。 

 十九世紀に著された本書は、百害あって一利なしの自己啓発本が氾濫する昨今の時流の逆を行く、古典を軸とする重厚な読書論を説いているが、かかる読書法の正統性は、彼の生きた時代から時の淘汰を受けて、脈々と続いているその経緯からして、ある程度は証明されていると言えるのではないか。

 それにしても、このショウペンハウエル氏。兎に角、口が悪い。

 

「文学も日常生活と同じである。どこに向かっても、ただちに、どうにもしようのない人間のくずに行きあたる。彼らはいたるところに群をなして住んでいて、何にでも寄りたかり、すべてを汚す。夏のはえのような連中である。だから悪書の数には限りがなく、雑草のように文学の世界に生い茂っている」(p.132)

 

 どうだろう。哲学者だって口汚くののしるのである。そういう気分の時もある。怒り心頭に発するというやつである。混交玉石の書籍の群れの中から「玉」と「石」を仕分ける能力が求められるのだとショウペンハウエルは説いている。

 ぼくが面白いと思うのは、以下の指摘。これは結構いろいろ考えるところがあると思っている。

 

「著作家に固有の性質、才能としては、たとえば次のいくつかのものがあげられるだろう。説得力、豊かな形容の才、比較の才、大胆奔放、辛辣、簡潔、優雅、軽快に表現する才、機知、対照の妙をつくす手腕、素朴純真など。ところでこのような才能を備えた著作家のものを読んでも、一つとしてその才能を自分のものとするわけには行かない。だがそのような才能を素質として、『可能性』として所有している場合には、我々は読書によってそれを呼びさまし、明白に意識することができるし、そのあらゆる取り扱いを見ることができる」(pp.129-130)

 

 非凡な著作家は人を惹きつける魅力を有する。非凡さを天性の才、即ち天才と解するならば、天才は人を引き付ける引力を有するといってもよかろうと思う。これは思想の引力である。読書をするうえで、あるいは社会生活をするうえで注意すべきはこの「思想の引力」であるとぼくは思っている。経験則としてそう思う。

 何も著作家に限らない。あまりに圧倒的な知性と接するとき、ぼくたち凡人はその非凡な思想の磁場に惹きつけられ逃れられなくなるということはないか。例えば未知の問題に接するとき、自身が既知の思想を適用し、再解釈するのみで満足してしまうということはないか。それは思想の怠慢ないし怠惰なのではないか。と思うのである。

 ショウペンハウエルが読書の危険性を論じるとき、彼は同時に、ぼくたちがショウペンハウエルの話をただただ反復し満足するということを慎むよう警告している。大哲学者の非凡な思想の引力から逃れるとき、ぼくたちは固有の視座を獲得し得る。事ここに思い至り、ぼくは自ずとカントの啓蒙思想に導かれるように思えてならないのである。

 

「啓蒙とは何か。それは人間が、自ら招いた未成年状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年状態にとどまっていることになる」(p.10)カント(中山元訳)「啓蒙とは何か」『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫

 

 舌の根も乾かぬうちにカントを引用してしまった。これこそが思想の引力である。独自の思想系を打ち建てるにはまだまだ「経験」が足りないというわけか。今後も修行に励む。未成年状態から脱する道は長い―。

 

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)