青年モラトリアムの読書譚

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読書感想|バーナード・クリック(添谷育志・金田耕一訳)『現代政治学入門』講談社学術文庫

 

現代政治学入門 (講談社学術文庫)

現代政治学入門 (講談社学術文庫)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)

政治学とは、社会において利害と価値をめぐって起きる紛争と、その紛争を調停する方法を探る学問である。それは現在の生活を改善するための、非常に有効な事柄を学ぶことにほかならない。政治は何をなしうるか。我々は政治に何をなしうるか。そして政治とは何か。現代人の基本教養・政治学の最良の入門書として英国で定評を得る一冊。

 

1.

 政治学と聞くと、忘れられない思い出がある。とある先生との出逢いである。学部一回生の秋学期であるから、ちょうど今ごろの時季であった。話は6年前にさかのぼる―。

 

2.

 当時、学部生であったぼくは「政治学入門B」という科目を履修していた。この講義は幾人かの先生が交代で講義を担当する、よくあるオムニバス形式の授業であった。必修科目ではないが、一回生配当の科目なので内容は平易。受講生の大半は一回生で、あとは単位に困る三、四回生という構成だった。

 その日は新しい講師に切り替わる節目の回だったのを覚えている。その日から三回は、政治哲学の教授が登壇することだけは知っていた。前回の講師が事前に告知していたからだ。前の数回の講師は日本政治思想史の教授だった。何とも気の抜けた調子で退屈な講義だったことは覚えている。彼自身の話よりも彼が講義中紹介した文献の方がはるかに面白く、印象にも残っている。これなら早朝に起床していそいそと講義に出るよりも、いっそ図書館に籠って文献を読んでいる方が全然有意義なのではないか。そんなことを思い始めていた。

 あの頃のぼくは、キャンパスに蔓延する学生の軽佻浮薄さも好きになれなかった。誰も彼もが大学は遊ぶ場所だと思っている。頭の良さとは即ち偏差値の高低に比例すると無邪気に信じている。だからこそ、ある者は受験勉強から解放されたことで浮かれ、ある者は国立大学不合格のコンプレックスを未だ引きずり卑屈に諦観している。勉強とは、いい学校に入り、いい会社に入るためにやるものだと信じて疑わない。悪いことに多くの教授がそういう学生の弱さと甘えを追認している。当時のぼくはそのことが内心我慢ならなかったのである。ある種の潔癖症に苛まれストレスが募っていた。

 端的に言って最高学府としての大学の実像に失望していたのである。佐藤優立花隆が感慨深げに語る学生時代の話で大学像を形成していたぼくにとっては、期待値が高かっただけに、失望の度合いは深刻であった。今思えば、ぼくの考えはいささか時代錯誤的であったとは思うが―。

 そういう経緯もあったので、その日もいつも通り、何の期待もなく「政治学入門B」の講義室に入り、最後尾の席に座った。しばらくしてから同じゼミの女の子がぼくの隣に座った。ありがたいことに彼女の手にはぼくの分のレジュメが握られている。謝意を伝えて笑顔で応じた。

 暫く彼女と話をして、ふと前方に目を向けると、いつの間にか教壇には既に教授とおぼしき初老の男性がおり何やら準備をしていた。ブルーのジャケットにジーパン。黄色いシャツを着ている。今日の先生なのだろう。

 9時になって一限目のベルが鳴る。暫くして先生とおぼしき男性が教壇にあがり慣れた手つきで素早くパワーポイントを起動させた。イントロダクションと書かれた映像が教室前方のスクリーンに映し出される。ぼんやりスクリーンを眺める。

 すると、初老の教授然とした彼は軽い足取りで教壇から飛び降り、教室に坐する学生たちを見据えながら唐突に切り出した。

 「民主主義って何だろうな?」開口一番で問う。「どう思う?」

 

3.

 講義室後方から、ぼくは先生の動きを目で追う。なかなか機敏な動きだ。

 その敏捷さに見とれている間にも教授は問う。「な?どう?」

 答えを待つ毅然とした態度が、その問いが講義前の単なる枕詞ではないことを物語る。講義室を覆っていた眠気が容赦なく薙ぎ払われた。教室では50人ぐらいの学生がまばらに座っていた。緊張感とない交ぜの沈黙が場を支配する。

 誰も彼もが先生と目を合わせないよう下を向く様子が、後方からはよく見える。ちょっと滑稽に思えた。

 先生は、そんな一群の学生の中から一人の女の子に同様の問いを繰り返した。マイクが彼女の前に差し向けられる。

 「どう?民主主義。どう思う?」

 暫しの沈黙。

 「分かりません」と女の子は答えた。消え入りそうな声であった。

 「分かろうぜ。大学生なんだからさ」と先生は間髪入れず応じてみせる。「分からないなら今考えようぜ」

 女の子は黙りこくる。きっと辛辣に聞こえたのだろう。

 先生は質問の矛先を別の学生にも向けた。逃げ場を失った学生たちは観念して、ポツリポツリと各々の考えを語り始めた。中には意味不明な回答もあったが、先生はどこまでも食いつてゆく。容赦はなかった。

 にわかに緊張を帯びた教室で、ぼくは身体が震えているのに気づいた。差し向けられるかもしれないマイクが怖かったのではない。嬉しさで震えていたのだ。武者震いである。

 「分からない」ことを「分からない」ままにして思考停止する学生の甘えを容赦なく一蹴する先生の言葉は、「分からない」ことを考え続ける姿勢を厳格に求めていた。学ぶことを全力で肯定する先生の言葉は、ぼくの鬱積した気分を払拭した。学生の軽薄さに一切媚びない先生の毅然とした言葉がぼくの脳裏で心地よく反響する。気分が高揚したのを覚えている。ただただ嬉しかった。

 

4.

 講義が終わった。90分の講義が一瞬に思えた。

 「なんか、めっちゃエラそうな人やったな」と、ぼくの隣に座るレジュメの女の子は毒づいた。ぼくは愛想笑いで応じたのだが、内心まったく正反対の感想を抱いていた。言葉こそ辛辣であれども、先生の言葉には学問への愛と学生への愛が感じられたからだ。

 それから暫くしてからだったと思う。ぼくは哲学という学問の神髄が「知を愛す(Philo-Sophia」というギリシャ語に由来することを先生から教わった。なるほど哲学とは知を愛する学問なのか。なんとなくカッコ良いと思った。

 他のいろいろの機会を通して先生の知遇を得てから、二度ほど先生のお宅にお邪魔したことがある。先生の周りには常に学生の姿があり、誰も彼もが容易に答えの出ない難問と対峙して、あくまで自分の頭を絞り考えることに喜びを見出している、そんな人たちであった。少なくともぼくの目にはそう見えた。やがてぼくは、そんな先輩や同級生たちと親交を結ぶことになる。そのあとは議論の日々であった。

 ぼくの学部時代の一切合切があの日から始まったといっても過言ではない。政治学と聞くと、ぼくは先生のことを思いだす。

 

5.

 今思い返せば、先生の執拗とも言える対話や討議の重視という教育スタイルは政治哲学という学問の固有性でもあったのかもしれない。先生は「民主主義とは何か」ということについて断定的に語ることはなかった。終局的な結論は語らなかった。代わりに、常に「民主主義とは何であり得るか」という問いを設定されていたように思う。

 学生の中には、先生のその姿勢に「答えをはぐらかしているだけ」と批判する者もいたが、ぼくはこの学生の不満は、なかなかおもしろい問題提起なのではないかと今でも思っている。これは皮肉ではない。

 本書の著者たるクリック教授が政治哲学について語る一文に触れて、一層そう思わされた。

 

「わたくしたちは、なにが『民主主義』の真の意味か語ることはできない。ただ、さまざまな文脈の中でひとびとが民主主義という用語によって意味してきたかを語ることができるだけなのだ。また、『自由』の真の意味とは何であるかを語ることもできない。しかし、その用語がいまどのように使われているか、かつてどのように使うことができたか、ある議論における特定の用法は別の概念を使用することと矛盾していないかどうか、そして特定の用法や定義を特定の状況、つまり道徳的あるいは政治的問題に適用する場合にはどのような帰結をもたらすか、などについては語ることができるのである。

多くの場合は、哲学の役割は、議論に決着を付けることよりも議論を明確にすることであるとみなされている。つまり政治哲学者は、ずさんな論証や、曖昧なあるいは自己撞着した定義を除去することはできるが、独りよがりのお説教をすることはできないのである」(p.120)*太字はブログ管理人

 

 クリック教授のこの指摘は正鵠を得ているように思う。件の学生の指摘はある意味で的を得ていたのである。また別の箇所で、クリック教授は政治学者のラスキを引用して語る。

 

「いまは亡きハロルド・ラスキのいうところによれば、学者の職業意識とは、学生に『自分自身で考えさせると同時に、ほかのいろいろな視点の真意を理解させる』ことである―もっともかれ自身、それはきわめて難しいことだと感じていたのだが。実際、本当のところはかれが、『他の特定の視点』とはいわなかったと、確実にいい切る自信がわたくしにはない。そうだとすると、ラスキの世界は非常に偏狭で切り詰められた世界だということになる」(p.115)

 

6.

 さて。本書の原題は“WHAT IS POLITICS?”。直訳すると「政治とは何か」あるいは「政治学とは何か」となる。英国の政治学の教科書としても有名なクリック教授による渾身の政治学入門書である。

 原著は英国の大学進学準備課程の学生や大学の初年次学生、各種の成人教育のコースで「政治学」を学ぼうとする者へのガイドブックという性格を持っている。なので、比較的平易な内容となっている。けれど、ぼくの読んだ印象としては、少々言い回しなどが固くって、全くの初学者には意味の捉えにくい箇所がある。もしかすると翻訳のせいかもしれない。いずれ原著にも挑戦してみたいと思う。英語に堪能な方はそちらも参照されるとよかろうと思う。こういうとき帰国子女の方々を羨ましく思う―。

 あと、本書が全くの初学者に向かないというもう一つの理由は、本書のスタイルが英国流であることによる。英国流の政治研究は米国流の政治分析とは多少様相を異にする。英国流の政治学は思想、歴史、制度などにも子細な目配りをする「自由学芸」的な雰囲気があるのだが、本書もプラトンはもちろん、マキャヴェリベンサムなどの思想家にもきっちり言及して論が展開される。統計学云々とかアメリカでしばしば議論される話があまり出てこない。そういう背景もあって、このあたりも人により好き嫌いがわかれるであろうと思う。ぼくは英国流の方が好き。

 ところどころで差し挟まれるウィットの利いた冗談もおもしろい。冗談を言ったかと思えば、ちょっと立ち止まらなければ理解が追い付いてこないような鋭い論理の切り返しがあったり、含蓄のある一文に出くわしたりする。ぼくが気にいったのは、例えば、以下の一文。

 

「政治を研究する者は、すべての目的は等しく善であるということを承認するよう人々に求めるべきではない。そんなことはばかげている。そうではなく、政治を研究する彼あるいは彼女が政治的に思考している場合は、議論は次のようなものでなければならない。すなわち、すべての道徳的目標は、たとえそれに心から賛成できない場合であっても、ともかくも頭では理解されなければならないし、その真意が把握され寛大に遇されなければならない」(p.69)*太字はブログ管理人

 

 百人いれば百通りの思想があり主張がある。それらは己の賛否に拘わらず、まずは適切に理解されなければならないのである。さもなくば、多様な人々との共存はあり得ない。かかる共存を目指すプロセスで、「議論に決着を付けることよりも議論を明確にする」姿勢は不可欠である。クリック教授の真意は「共存する社会」にあるのではないか。だからなのだろうか。本書でクリック教授は他のあらゆる思想に理解を示すが、無政府主義(アナーキズム)に対しては少々冷淡な態度をとる。無政府主義は無秩序を容認し、これら共存を可能とするルールの定立を拒絶するからである。

 クリック教授にとって、政治学というのは、多様な価値と利害の調停なのであるから、何かしらのルールの存在は肯定されなくてはならないのだろう。

 

政治学とは、社会全体に影響をあたえるような利害と価値をめぐって生じる紛争についての研究であり、また、どうすればこの紛争を調停することができるかについての研究である」(p.13)

 

7.

 さて、少々締まりが悪いことは自覚しているが、本ブログは雑感であるので、この辺にしておく。

 本書が一読に値するものであることは疑いないと思うのだけれど、本書の巻末に添えられた国際政治学者・藤原帰一氏の解説文もまた秀逸なのである。氏は著者のクリック教授とも親交をもつ。こちらも一読の価値あり。